「破門」の言葉に執着する元地区部長

日蓮大聖人が御在世当時、多くの弟子がおられたことは間違いない。しかし、中には不肖の弟子もいたことでしょう。
では、その不肖の弟子に対して、破門をされたことがあるのでしょうか?

という質問です

と言う、かなり変わった学会、及び宗門に対する「疑義」です。
こんな質問を放つブログが、これ。

~創価学会の問題~…「日蓮大聖人は弟子の誰を破門したのでしょうか?

〇   〇   〇

管理人紹介に以下の様な言葉が記されていました。

元地区部長ですが、今は未活動家です。
コメントへの返信を要求する方は、最初からコメントしないでください。内容により返信しない可能性がかなりあります。
このブログは私の思うことを書いています。議論をするつもりはありません。他所でやってください

他人の意見、助言を完全拒否のブログです。
…故に、乾河原の意見は彼には送るつもりはありませんし、そもそも彼は「意見」を聞くようなそんな人間でも無さそうですから、時間の無駄は省きます。
で、ここでは私自身の個人的な感想を述べることにします…。

彼は続けます…

私も(御書等で)色々調べてみたのですが、「(弟子の信心が)遠くなってしまったというような表記はあるのですが、(弟子を)破門した、という表記は見当たらないのです。
ご存知の方は、教えていただきたいのです

ブログの彼は、大聖人が自分の弟子を「破門した事実」があるのかどうか、の疑問を呈しています。
若し、大聖人がお弟子さんを一人も破門して「いない」と言う事実があれば、学会や某弱小宗門の「破門」(除名)と言う行為は日蓮仏法の教義から外れるのでは、と言う彼の主張です。

確かに一理のある話、疑問だと感じます。

もし(誰も破門された人が)無い(いない)のであれば、これは大きな問題だと思っています。
日蓮正宗が学会を破門したことも、学会が今までに何人も破門
(学会より除名)したことも、両方とも先師違背と言えるのではないか?

ブログの彼自身の「信心が遠くなってしまった」事は、「先師違背」とはならないのかな…?
と言う茶化しは兎も角として、彼は更にこう話します。

元々大聖人の仏法は、例え一闡提の者であれ、最終的には成仏の可能性が残された仏法であり、如何なる者も成仏できるとされていると(私も)考えています。
しかし
(若し大聖人が)不肖の弟子を破門し遠ざけたのであれば、大聖人自らその者の成仏を閉ざしたことになる。そんなこと(を)大聖人はされたのか?ということです。
弟子自らが大聖人から遠のくことはあっても、大聖人(自ら)が破門された事実は無いと思われるということであれば、それは非常に納得がいくし、(またとても)素晴らしいことだと思うのです

彼の語るこれらの話は、非常に理論的、且つ仏法教学的にも「納得」出来る、そんな話です。

が、大聖人からのこの疑義に対する「返答」は、当然直接聞く事は不可能。
然るに、大聖人の「血脈を継いでいると言われる創価学会」首脳部(つまり池田先生)にその返答を求めることは、可能かと…そう考えている様です。

そうであれば、若し破門(学会からの除名処置)が行われている、又はいたのであれば、これは非常に問題ではないか、ブログの彼はそう話すのです…。

「…そうであれば、日蓮正宗も学会も先師違背。
大聖人が、どんな者であれ成仏の芽を信じ破門しなかったものを、何故に後世の者たちが破門する
(芽を摘んでしまう)のか?となってきます

さて…
乾河原個人としては、池田先生の不肖の弟子への「処分」に関しては、これは仕方のないことだったと感じています。

何故なら、創価学会も「組織」として、言葉としては変ですが、学会と言う組織を「延命」させていくべき「使命」を持っています。
獅子心中の虫」の言葉の通り、どんなに壮大な計画を持った組織、巨大な団体でも、たった数人の「異分子」によって簡単に崩壊してしまうと言う事実は、歴史上に数多く存在します。
たった数人の異端の意見を大事にし過ぎて、その他大勢の善良な会員達の意見を無視する事って、首脳部として果たして出来る事なんでしょうか…?

大聖人の時代にもそんな人々が多く存在していたことは、御書にも描かれています。
それらの人に対して、大聖人の「お気持ち」がどうだったのかはよく判りませんが、確かに最後の最後まで彼等に対しての「信心指導」は行ってはいたようです。

故に、大聖人からの直接の「破門」と言う行為は、これは個人的な想像でしかないのですが、若しかしてあったのかも知れませんが、歴史の資料としては残っていないようです…。
つまり、歴史の表面上には「破門」という行為の資料は、若しかして無いのかも知れませんが、しかし事実上の「破門」はあったのかも知れません…。

〇   〇   〇

重ねて、お尋ねします。
日蓮大聖人は、弟子の誰かを破門したかもしれない、と思える文章をご存知の方はおられないでしょうか?

あればお教えください

彼は「破門」の言葉に「異常な執着」を示します。
かつての地区部長時代も、こんなどうでもいい問題に対しての執着感を持っていたのでしょうか。
どうでもいい「問題」は、創価学会員の「信心活動」にとっても、全くどうでもいい問題です。

創価学会は「境涯革命」を推進している組織です。
その組織の中に信心活動を妨げる「異分子」「獅子身中の虫」が存在すること自体、学会にとっては致命的な問題になります。
その「異分子」を創価学会が如何なる手を使っても「処分」する事は、これはある意味当然の話となります。

つまり、彼の疑問の根源の問題とは、大聖人や池田先生の「破門・学会除名」と言う表面上のものではないのです。
信心上に於ける様々な疑問が出てくるのは、信仰生活をおくっていれば当然の話です。
ですが、その疑問そのものに「執着し過ぎる」ことは、これは本末転倒の問題になります。

逆に彼に聞きたいですね。
あなたは若しその疑問の答えを得たとして、その後あなたは一体「何をする」のでしょうか…??
ホッとして笑顔で、更に学会の小さなミスを探し回る…?
そしてまた更にこんな記事を書いて、又々どうでもいい疑問の提示を繰り返していく…。

信心の本当の答え」は、学会の信仰活動「から」しか見つけられません。
小さなどうでもいい疑問などは学会の活動の中で頑張っていれば、その内に本気でどうでもよくなってくるのです。
大きな疑問は題目をあげきって、それこそ幹部に聞きに行けばいいのです。
でも、彼はそんな行動を全くしていません。

間違いなく彼の「疑問提示の行動」は、これからも延々と彼の「一生涯」に渡って続いていくはず。
で、老後にハッと気付くと、ただ「下らない疑問の記憶しか残っていない」そんな情け無い人生で終わっていくのです……


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Author: 乾河原

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