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「無実践教学」の一つの例

私は学生時代にアメリカの宣教師の先生からキリスト教と英語を学びました。その際にアメリカ人の先生たちのキリスト教に対しての真摯な生き様に衝撃を受けました。
(彼等は)戦後日本の若者を救おうという崇高な精神性を持って来日された方々ばかりでした

ブログ主はそう話します。

各国に(公的・自費含めた)宣教活動を展開するキリスト教徒達は、確かに本気でその国の人々を救おうという気持ちの持ち主が多い事は間違いありません。
個々の人間を見てみても、非常に崇高な気持ちで自身の宗教をその国に広めている人が多い、と言う事も確かの様です。
ブログ主はそんな彼等に接して、彼等の信じるキリスト教の事をもっと良く知ろうとして聖書を真剣に勉強していた時期がある、とも話します。

「(しかし)生長の家の谷口雅春先生の『生命の実相』を読んでの勉強で仏教や神道について学び始めてから(彼等キリスト教に対して違和感が出てきたのです)
素晴らしいと思っていたキリスト教はだんだん色あせてきました

井上政典のブログ…「何故創価学会に違和感を持つのかがわかった!

宗教放浪者のようなブログの彼が、宗教遍歴を二転三転した結果、創価学会宗教の致命的な箇所を見つけたと話します…。

〇   〇   〇

谷口雅春とは、神道系新興宗教の創立者。
彼は、ある時ある場所で突然神の啓示を受けて、そして宇宙の「真理」に目覚めたと言う、戦前に活躍した宗教創立者によくあるお方の一人。
キリスト教の有り難い福音を投げ捨てて、日本神道と言う大してまともな宗教教義も持っていない古色蒼然とした古代宗教に身を投じてしまった彼は、自身のその貧弱な哲学観を使って、我々の創価教義の瑕疵を論難します。

どんな宗教でも、そこには必然性があり、他の人間がその宗教の是非を判断すべきではないと思っていましたが、創価学会の普通の日本人が持つ違和感を紐解きたいと思います
ただ、創価の教えを非難したり、否定するものではありません。(何故なら)その批判をするにはまだ研究が足りていませんし、まだまだ未熟だと思うからです

彼の「未熟な宗教哲学」を振り回して一体何をしたいのか不思議に感じますが、一応言い分を聞いてみたいと思います。

とてもおかしいと思うのは、現世利益を求める学会員が多くおられ、それは創価の教えを本当に理解していないから普通の日本人に違和感を持たれるのだと思うようになりました

創価学会における「現世利益」への批判は、今も様々な組織や個人から出まくっています。
しかし、この我々が呼ぶ「功徳=現世利益」と言われるものは、我々の目指す「成仏」の途中経過の一つの「結果」でしか無いと言う事に、彼及びその他大勢の学会批判者達は気付いていないのです。

仏は小病で、且つ小悩」…仏界湧現者は病気をしても大病はせず、且つ大きな悩みは無い(意訳)とは、戸田先生の「」の説明文です。
簡潔且つ、有無を言わせない正確な説明だと、私は思っています。

この仏の説明文を「」から考えて見ると、仏界湧現(人間革命と同義)を目標として仏道修行(学会活動)している人間は、必然的に大病をしても完治が早くなり、また大きな悩みを抱えていても修行が進む内にその悩みも小さなものになってくる、と言う話になります。

病気が治る、生活苦が縮小する、悩みが少なくなる…これら一つひとつの結果「だけ」を見ると、確かに創価学会信仰は完全に「物欲主義」に見えます。
しかし、学会信仰の最終目標は「仏界湧現=人間革命=境涯革命」です。
一生成仏とも言われるこの「革命」は、「短期的視点」で見るととんでもない結論を導き出します。
ブログの彼はいつもの学会批判者が陥る「短気的結論」に落ちてしまっているのです。

仏教は本来、自己の我を捨て去る教えだと理解しています。
自分の我欲に固執するために悩みや苦しみが生まれてくるとお釈迦様は説いておられると理解しています。
そのため、自分の欲をどう捨て去るのか、ありのままにどうさまざまなこの身に降りかかる出来事を受け入れるのかを考えるものだと思っています

我欲を否定」とは、学会信仰以外の全ての仏教の「宗教ポリシー」です。
がしかし、人間が我欲を捨て去る事の本当の意味を彼は知りません。

人間の成長の根本は「希望」です。
これは、人間が誰でも持っている本能的な前向きの気持ちの事です。
希望とは、俗的に言うと「我欲」の事なのです。
これはちょっと頭を捻って考えて見れば理解出来る、特に難しくも無い理屈です。

我欲」などと言う小難しい言葉にするから「だからこんなものは人間には不要!」と誰もが結論しそうになりますが、しかし本当は我欲とは人間にとって非常に大切なものだと言う事に気付いている宗教は、「皆無」。
そもそも論として自身の本能を捨て去る事が、果たして本当に出来る事なんでしょうか?
ブログの彼は、人間から希望を取り除く事が「悟り」なんだと話します。

「(我欲を取り除いて、更に)自然=神さまと同化する、自然と一体となることによりすべてを受け入れる考え方に繋がっていくのではないでしょうか

神秘主義」、これが宗教の本義だとブログ主は結論付けます。
これは当に例の如くの「宗教は安穏…♪」を地で行っている考え方、日本人一般の宗教観でしかありません。

〇   〇   〇

「法華経の言う通り」、自分たちの悩みやその解決策はすべて法華経に書いてある、だからすべての法華経の教えに委ね、ありのままに生きよと教えられていると思います。
「南無阿弥陀仏」と「阿弥陀さんの言う通り」で、阿弥陀如来様が私たちを救ってくださる、だから阿弥陀如来様におすがりし、それをありのままに受け入れよという教えです

彼は法華経と阿弥陀経を同列に並べて、こんな仏教観を晒(さら)します。
これは当に、大聖人の言われる「内道を修して外道に陥る」の典型例だと言えます。

これは、実践(宗教体験)の伴わない大聖人仏教の勉強がどれ程危険に満ち満ちているかを改めて感じさせられるブログの一幕でした…。


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