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自語相違の生き方

何処かのある書籍の中から面白気なものを(つまり自分の都合のいい文章のみを)抜粋をして、「どうだ、参ったか!」と言わんばかりの文章を綴るブログが多々存在していますが、今回取り上げるブログ主もその種の人間です。

エゴにはつい見過ごしがちな微妙な形がたくさんある。あなたはそれを他者に、そしてもっと大事なことだが自分にも見ることができるはずだ」(抜粋文)

彼はどこからともなく抜粋した当文章を、様々に角度を変えながら自分流に書き換えています。
これは「人間のエゴ」のお話。
面白そうなので、チョイと覗いてみます…。

わだかまらない生き方…ニュー・アース 第三章(11)

〇   〇   〇

たとえば、だれかにニュースを知らせようとする。「ねえ聞いた?え、まだ知らないの?
それじゃあ教えてあげる」そのとき、
(略)その瞬間、あなたは相手より「多く」を知っている。あなたが感じた満足感はエゴのそれで、他人との関係で自分が強者になったと思うことから生じている」(抜粋文)

この素晴らし過ぎる美文をどなたがお書きなのかは知る由も興味も無いのですが、「教える」という行為をこう言う偏執的に見る事が果たして正常な精神のも持ち主のやる事なのでしょうか?
学校の先生、先輩、指導者等は全て「教える」と言う事を中心にして生活をしているはずですが、では彼等も全てエゴの塊?
様々に疑問符が出てきますね、この文章は…。

 自分のほうが 倫理的に優位に立ったという想像を通じてエゴを強化する。
誰かに否定的な判断をするときには、きっとこの優越感がある
」(抜粋文)

何処かの誰かが続けて話しています。
すると、指導者が生徒に対して間違いを正す事も、彼にとってはエゴの強化に見えるようです。

 誰かに何かを教えてあげる、それが相手の知らない事柄だったら優越感をおぼえる・・
その理由は”自分が優位に立った気になれるから”と。 

確かにそれはあるかもしれませんねw

ブログ主の共感のお言葉です…。
薄っぺらな思考力しか持っていない人間の、薄っぺらな御芳情です。
で、次にくるのがこんな「お話」。

で、特定宗教にハマった人が、上から目線で・会話の端々で相手より優位に立とうとするのも結局それなんだよねーと・・

「(しかし)いまさらですが、ことわっておくと、私はこの「ニュー・アース」記事を創価脳の破折に使っているわけではございません。
そう読まれているかもしれませんが、誤解です。決してそういうことじゃーないんですよw

とブログ主は付け足したように断っていますが、文字通りモロの学会批判である事は誰が読んでも理解出来る話。
ニュー・アース」なるものが何物かは知ったことではありませんが、この程度の幼稚な「哲学」など学会教学から較べれば何の意味も持っていません。
単なる情けの無い言葉遊びです…。

どこにでも、人脈自慢の人っていますよね。虎の威を狩るーってやつ。それで自分が強く・尊大になった(?!)気になる人

誰を非難しているのかは想像の通りですが、次に来るのが例の如くのいつもの「お話」。

そういえば元気なころの爺様は、世界の要人と会うのが大好きだったよね~!(遠い目)。
「向こうが俺に会いに、わざわざ来日しているんだ!」的なこと、豪語してましたっけ。

はっ、いけない。またサンプルに使ってしまったw

自語相違、言動不一致、偏見…等々、彼の言動に対しては色々言えそうです。
でまあ一番適切な言葉は、「学会批判者のいつもの戯言」…でしょうか。

〇   〇   〇

有名人の名前をさりげなく持ち出してアピールするのは「重要」人物との関係を匂わせて自分をえらく見せ、それによって自分自身も優越感を味わおうというエゴの戦略の一つだ。
世間で有名になるとつらいのは、集団的なイメージによってほんとうの姿がかき消されてしまうことである」(抜粋文)

彼は誰か知らない人間の幼稚な「お言葉」を自ブログに載せて、その内容に対して様々に賛美を惜しみませんが、でもやっている事は自身の批判している行動そのものだと言えるように見えるのは、果てさて気のせいなんでしょうか?


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