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信仰体験のひとつの「お話」

「生かして生かされて生きる」…「遠藤 誠 氏

学会批判系のあるブログに遠藤誠氏(1930~2002年)の言葉の数々が引用されていました。遠藤氏の様々な所行はWikipedia等で調べて頂ければ何となく見えてきますので、今回はブログ主のお気に入りの学会批判話の数々を中心に記事を進めて行きます。

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遠藤誠氏の言葉。
自分(ブログ管理人)の信仰スタイルというものを、あらためて振り返らせてくれる言葉の数々

彼(女、以下同語)ブログ主は、遠藤氏の信仰観をこう評します。彼は若しかして、元学会員か又は現在進行形のミカツさんかのどちらかの人なのでしょう。
尊敬申し上げる遠藤氏の学会への有り難いお言葉を、延々と自ブログの記事として載せています。

「(創価学会の信仰は)まやかしですね。(略)
真の宗教というのは、拝んだから病気が治ったり、交通事故が防げたりというような迷信ではない。病気になろうが貧乏になろうが、配偶者に裏切られようが、へとも思わない自分になることが本当の信仰なのです

遠藤氏のこの言葉は、表現は違えども学会批判としてよく出てくるものです。所謂信仰における「功徳の否定」と言うものです。
仏教(宗教)信仰とは、功徳などと言う下らない話に帰すべきではない。あくまでも精神論で行くべきなのだ!と言う、何となく前回の大戦中の何処かの国の国策如きの、そんな宗教観を思い起こさせるお話となっています。

しかし心ある方は考えるべきです…。
仏教、特に日蓮仏法は、自身の「仏界湧現」と言うものを最大限の「功徳」と考えます。
仏性の湧現」とは現代風に訳すと、自分自身の生命的な「強さ」の事を言います。どんな環境においても「めげない」、そんな強さを身につけることを言うのです。
意訳すれば「宿業転換」とも「人間革命」とも言います…。

更に別謂すると、

仏は、小病・小悩す

仏界湧現者(=宿業転換し続ける人間)は、病気はかかるものの普通の人間よりも重くなる事はないし、悩みはあるが地獄のような悩みはない…と言う意味だと言えます。

要するに学会信仰の「功徳」とは、現代流に更に意訳すると、凡夫(普通の人間)が自身の命の中に本来持っている仏界(強い人間)を、自身の生活の中で「活性化」して行くと言う事です。

この教義内容からすると、遠藤氏の批判している「(題目を唱えると)病気が治ったり、交通事故が防げたり…」とは、迷信でも何でもなく、実際に存在している現実の「功徳現象」だと言えます。

「(仏法の目的は」病気になろうが貧乏になろうが、配偶者に裏切られようが、へとも思わない自分になる」との彼の功徳観は、これは仏法の感覚から遙かに離れたものです。社会不適合者や精神疾患者じゃあるまいし、こんな異常な教義は異端そのものです。

そんなばかげた話ではなく、学会信仰人とは、自身の悩みを真正面から見つめ、且つ悩みそのものを踏み台にして、そしてその場所を土台に、更により良い境涯を築き上げて行こうと言う、そんな強さを持ち続ける人間の事を言うのです。

遠藤氏やブログの彼は何処でどう勘違いしたのかは知りませんが、非常に歪(いびつ)な学会観を持ってしまったようです。

創価学会の方々は、真言宗(等)を勉強し(略)たうえで、日蓮正宗というものを選び取っているかというと、そうじゃない。たまたま隣にいた人が熱心な学会の人だったとか、いろいろとしつこい折伏に染まって自分までそうなったとか、そういう人が大部分名なわけで、彼らにとっては創価学会の教義が最も大事なのかもしれませんが、(略)それでは、『イワシの頭も信心から』になっちゃいます

遠藤氏はステレオに(つまり学会批判者達の洗脳を受けた結果)、学会員全てが盲目的且つ強制的に学会信仰をさせられているのだと言い張っています。
まあ「折伏」は、内部の人間が考えても確かに「無理矢理感」は感じるものの、しかし学会の信心を「イワシの頭的な信仰観」と言うものの見方は、これは完全に間違っています。
学会人の信仰活動の源泉は「自身の信仰体験上」からのものです。そしてそこからの「自発的な活動」なのです。

この手の正常とは言えない人間や学会批判者系の宗教観からすると、この学会の「信仰体験」は宇宙論的驚天動地に近く、到底信じることも想像することも出来ないものです。しかし、他の全ての宗教には信仰における「実体験」と言うものが存在しない中、事実として学会の信仰には方程式的に「信仰の体験」というものが存在しているのです。

学会が信ずるという日蓮正宗の根本的な教義が末法思想です。(略)つまりお経の否定ですね。(略)ところがこの法華経というお経も、彼らの教義からすれば正法時代にできたものなのです。そこに創価学会の根本的な矛盾がある

と遠藤氏が主張します。がしかし禅宗の宗教は、そもそも釈尊の教え全てを完全否定している訳で、その釈尊全否定の宗教を「仏教」だと言い張っている時点で自己矛盾そのものなのですが…。さてその事に関して生前の彼はどう考えていたのでしょう…?(疑問の方は「教外(きょうげ)別伝」、「拈華(ねんげ)微笑(みしょう)」を調べてください)

更に又、「(法華経は)正法時代に出来た」云々の話も遠藤氏の宗教的無知識を如実に示している「お言葉」になります。これもよくある、仏教思想(哲学)の「発展」という歴史事実を完全に無視した論難なのです。

要するに数の多少をおもんばかることなかれ、また数の多きを誇ることなかれ。
とにかく禅というのは一人一人のものなんです。
(略)この点では、創価学会なんかは逆をいっていますね。『おれのところには何百万世帯集まったぞ。(略)どうだ、スゲエだろう。だからおまえも信じろ』と
ところが、本来の仏教は数じゃないんですよ。一人のものなんです

これは禅宗教徒・遠藤誠氏の面目躍如たるお言葉になります。
彼のこの主張は、仏の「四弘誓願」という言葉も仏教の生命観も何も知らずに無駄骨ばかりの人生だったとはっきり明言できる話になっています。

こんな情け無い言葉に惑わされる人間が未だに存在しているということ事態、何だかやりきれなくなってきます…。

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『日蓮大聖人の御書何ページにこうかいてある。だからこうする。』と。
『池田会長はかくかくしかじか言った。だから俺もそうする。』と。
いかなるときに日蓮さんが、そうお述べになったのか、いかなるときに池田さんがそういうことをおっしゃったのか、そういった背景とか本当の意味を全然考えずに、うわっつらの言葉だけで適用しようとする。これが教条主義

と、最後に遠藤氏のお言葉をブログ主が援用して述べています。彼もこの遠藤氏の言葉に賛同しているようですが、これ又、又々…彼等のえらく酷い勘違い。
学会員は大聖人や先生の言葉や話を、自身の単なる教条主義的な行動原理としているのではありません。御書や先生の話を「身で読んだ」上で、自分の信仰生活指針にしているのです。

本当の「信仰体験を持っていない人間」の目にとって、創価学会がどんな異形の存在と写っているのか、その事がよく理解出来るブログのひとつでした……。


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