メニュー 閉じる

尾崎明夫神父のカトリックの教えーⅡ

尾崎明夫神父の「カトリックの教え」の仏法から見た問題点-Ⅰより続きです

神はいかなるお方か」(1及び2)

キリスト教の神は、「創造神」であると同時に「人格神」でもあります。
人格神とは簡単に言うと、この上ない人間的な、完成された人格を持った「最高の人間」と言うことです。

日本の八百万(やおよろず)の神々やギリシャ・ローマの神々も、ある種とても人間臭い神々ですが、キリスト教のものは他宗のそれと比べて、全く比較も出来ない程の、道徳的にも人間的にも完璧、そして完全無瑕疵(間違いの一切ない)の、そんな超人間的な存在として扱われているのです。
その故に、キリスト者にとって自分達の神は、我々人間の苦しみも全てご存じなのだと言い張って聞きません。

でも、そう言う「おはなし」をそのまま、そして生のまま信じてしまうの事は「現実」のクリスチャン達の苦しみ多い生活を考えてみると、まだまだ時期尚早のようです。

〇   〇   〇

天の父なる神さま、主イエスはあらゆる点において私たちと同様に試練に遭われました。そして主は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、むしろ憐れみと恵みをもって助けてくださる方であると教えられ、感謝します」(「天の神」と「主イエス」は而二不二の関係です)

辛い生活も何のそのと、日々彼等は神に感謝し、そして崇(あが)め祭り続けます…。
何故、今までたった一度も会ったことも、また姿を見せたこともない神のことをそこまで信頼しきっているのか、我々凡人にとっては不思議そのものの感覚に陥ります。

…彼等キリスト者は以下の如くその「理由」を展開します。

被造物を観察すると、全ての被造物は「存在している」ことがわかります(と言いましても、この明白な事実を悟る人は少ないですが)。
そして、存在するものはみな、善である(意志を引きつけるもの)、真である(知性によって把握できる)などというようなことが言えます。
存在や善や真などの被造物がもっている特徴は、創造主である神が最高限度に持っているはず

これは、かなり強引且つ捻(ひね)くれた論理思考を持った人間の、神に対するおべっかのように感じます…。

この話を、こちらも同じく少々強引さを持って更に説明を加えてみると、我々「神の存在」を受け入れた「被創造物」(人間を含む世界全て)は神と同等に「善であり真である」から、故に(逆に考えてみると)、創造主は人間以上に完全な人格を持たれたお方なんだ(演繹法)…となります。

仏法に親しんでいる我々からすると、彼等のこの手のお話は「牽強付会(きょうけんふかい)」「こじつけ」、若しくは「支離滅裂な暴論」のようです…。

実際の話、自分の僕(しもべ)であるキリスト者達が、どんなに苦しんでいようとも全く何の関心も持とうとしない「人間的な神」に対して、何十億という「空しい神への訴え」が古今東西数え切れないほど存在していると言う事実を、当の愛に充ち満ちた神ご本人は一体全体どう受け止めておられるのでしょう?
切なる「訴え」に対して、今まで如何なる小さな救いの手も打とうとしなかったそんな「超高潔なお方」のイエス様は、今現在何処で何をされているのでしょう?

大好きなパチンコにでも浸りきっているのでしょうか…。(まあ、「三密」には気をつけてはおられるでしょうが……)

「イエス様の教えの特徴は、神がいかに深く人間を愛される父かを如実に示したところにあります。神は、人間を愛によってお造りになり、近くから見守り、贖い、また赦されます。もちろん、罪人が悔い改めない場合は正義によって裁かれることも真実なのですが、神様にとって人間とはかわいくて仕方がない存在だということがイエス様の教えから分かります」

 「神の愛をどれほど理解できるかは、私たちが普段から隣人のことをどれほど気にかけているかによるからです。「愛することのない者は神を知りません」(前掲書)と言われる所以です。神様をありがたく思わないなら、毎日の家族生活や仕事場での隣人に対する態度を反省しなければなりません」

神の広報担当である法王や牧師達は、自分達を養ってくれている末端の何十億人という信者が苦しんでいる状況を知ってか知らずか、自分等の空虚な信仰生活を上の如き表現を使って誤魔化します。
で、更にそれらの信者達にこんな説教を加えもするのです…。

 兎に角、神を有り難く思いなさい。憎くても隣人を愛しなさい。信じられなくても、文句を言わずに神を信じなさい…」と。

神を信じ尚且つ必死で神を愛し続けているキリスト者達に、現実として神ご本人からの愛は、さて果て届く事があるのでしょうか?
…若し届くとすれば、あと何万年後の話?

当然のことですが、仏法者は「神の存在」と言うものには何の意味も感じていません。
創価学会員は特にそうですが、神を信じようがどうしようが、また神が居ようとも居留守を決め込もうとも、我々の信仰生活には全く何の違いもありません。

我々の「現実」の問題は、自分の宿業を、自分自信の生活の中で如何に真剣に対処していくか、それが「自分自身の幸福」に直接繋がっていくものだとはっきりと体験し、且つ理解している訳ですから…。

〇   〇   〇

「この神様は、「御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」とあります。
これは約束であり、すでに受けている恵みです。心から感謝です

 神からの空疎なお約束(契約)を強引に信じ、自信の生活の苦労も苦労だと認識しないように努め続ける彼等クリスチャンの信仰生活とは、仏法の上から考えると「福運の一切存在しない宿業まみれの生活」という表現が適当です。

ある意味、覚醒者達の「その後の人生」と言う言い方も出来そうにも思えますが…。

尾崎神父のカトリックの教えⅢに続く


関連記事

人生の「苦悩」は神からの「祝福」…

クリスチャン純、彼の人生の行方は?

ある牧師の話す天国への道

2件のコメント

  1. ピンバック:尾崎明夫神父の「カトリックの教え」の仏法から見た問題点-Ⅰ | MonLinGen

  2. ピンバック:尾崎明夫神父のカトリックの教え-Ⅲ | MonLinGen

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。