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御宗門の御書講義

「日蓮正宗」と言う仏教(?)団体が存在しているそうです。
赤の他人から聞いた話では、彼らのモットーは、組長(仲間内では「ホース」と呼び捨てているらしい。あれ?それとも「法主」だっけ…??)の「法水写瓶」と信徒共に対しての「上意下達」とのこと。

彼らホース、いや坊主達の言い分では、先ず「法水写瓶」とは、日蓮大聖人から直接の信仰の極意の付属を受け、その大事な血脈を代々のホース達が瓶の水を零(こぼ)さない様に、彼ら仲間内だけで通じる「信心」を一滴も残さずに受け継いで来た、とそう話しています。そしてまた、自分達の囲(かこ)っている信徒達に対しては、奴隷の如くの差別を「上意下達」と言う、これも現代の感覚では全く理解不能のやり方で統率し続けている人間達の集まりが、すなわち「日蓮正宗」だという話なのです…。

また、彼らは成金人間の例に漏れず、嘗(かつ)て真の信仰心を持っていた、今は世界組織にまで発展した創価学会の人々達から騙(だま)しに騙して掻(か)き集めたあぶく銭を使い、自分達には全く似つかわしくもない程の偉く立派な

HP・「日蓮正宗/NICHRENSHOSHU」

と言うサイトを運営しているのです。

…そのサイトに「一生成仏抄」の講義が載っていましたので、若干暇つぶし気(げ)に寄り道をして、彼らの有り難いお話を聞いてみたいと考えました。
若し興味のある方は、茶飲み話でも聞くぐらいの感じでもいいですので寄って楽しんで下さい…。

〇   〇   〇

妙法蓮華経と唱えることが衆生本有の妙理を観ずることである。なぜなら、法界のすべてが一念の生命に包含されることを説き顕しているのが妙法だからである、と御教示されます

いきなり小難しい言葉が無造作に並びました。
この程度の古文は、創価学会でも毎月の座談会や大白蓮華で出てくる大聖人の文言です。特に難しい言葉でも無さそうですが、でも御宗門の中にこの言葉を理解出来る坊主が果たして存在しているのでしょうか?
不思議な感覚に襲われます。

次に、いかに妙法を持つとも、自己の心の外に妙法蓮華経があると捉えるのは間違いであると示されます

…納得出来る信心の指導に感じます。
どなたがこの文章をお作りになったのでしょうか?
気になります…。

私たちの一生成仏のためには「衆生本有の妙理」、すなわち私たち凡夫の己心に本来具そなわる妙法を観ずべきで、それは妙法を唱えることと規定されています。さらにまた、いかに妙法を唱え持ったとしても、妙法が私たちの「己心」の外にあると思えば、それは全く妙法ではないとも御教示されています

こんなことを考えると謗法呼ばわりされそうですが、敢えて話してみると、若しかしてこれらのとてもまともな文章は、過去遠遠劫時、学会と関わりのあった時代に作成されたものを、当時のそのままで掲載し続けているのでしょうか…?
何となくそんな気もしないでもありません…。
が…その後のお言葉から少々ちぐはぐ観が出てきました…。

再往「己心」の真意を、大聖人様の仏法の本義から拝すると、『経王殿御返事』に、  「日蓮が魂ひをすみ墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(同 685頁)と仰せのように、それは直ちに御本仏日蓮大聖人様の「己心」であり、「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められた、人法一箇の本門戒壇の大御本尊にこそ存するのです

最弱小宗門大好物の『本門戒壇の大御本尊』のご登場です。やはり宗門のお得意の信心とは「もの」の御文。
何となくですが…ほっとしました
この文章を追加した人は、前段の『妙法が私たちの「己心」の外にあると思えば』との関連性を真面目に考えていたのでしょうか…?
何だかそうでもなさそうに感じます。

その証拠に次の文章を読んでみると、彼ら宗門達の牽強付会のいい加減さが理解出来ます。

これに反して、かの池田大作は、法門の次第浅深をわきまえず、本抄等の文だけを取って、「仏とは、人間(凡夫)である」「人間(凡夫)こそ、仏である」と放言し、衆生の迷心に妙法の当体があるごとく主張しす憚かりません。このような憍慢の邪義が、大聖人直結という誤った指導となり、『ニセ本尊』という大謗法の所業となって、多くの人を惑わしているのです

信心の全くない人間からすると、先生のこう言う日蓮仏法の信仰の主張は理解の外を行っているようです。
キリスト教は外道の最たる宗派ですが、彼らの信仰の肝は神からの恩寵です。そして彼らの信心の本義は「儀式」です。特にカトリックの信仰心の表現は「聖別された物での儀式」そのものなのです。
大御本尊は、ある意味「もの」です。「もの」が信心の中心だという日顕宗は外道そのものなのです…。

そして彼(か)の日顕さんの有り難くもかたじけない御恩寵のお言葉が次に出てきます。

『法華初心成仏抄』に、 「我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり」(同 1320頁)と御教示されているのです。

 これについて御法主日顕上人猊下は、平成十二年夏期講習会第五期の砌(みぎり)、「この身を捨てるということを日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経と唱えることだと仰せです(中略)本門下種仏法では、妙法を唱え折伏弘通することがそのまま即身成仏であり、その理由は、迷いの凡身そのものをもって、直ちに肉身のまま仏と成るからです」(大白法 五六一号)と御指南あそばされています

彼が何を話しているか理解出来る人が居るでしょうか…?
私にはさっぱりです…。少なくとも当講義の関連性から考えると、全くもって理解不能の彼の言葉です…。

〇   〇   〇

此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、
此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。

 日女御前御返事[御本尊相貌抄]

 元猊下の日顕以下宗門系の人間達に、この大聖人の話された『信仰の本義』のことが、果たして理解出来るでしょうか…。
どうも疑問符ばかり出てくる、某最弱小御宗門の信仰の在り方です。


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