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クリスチャン純、彼の人生の行方は?

プロテスタント教信徒の「純」氏のキリスト教信仰ブログです。

彼はトーシツ(統合失調症)を患(わずら)っています。それでも彼は、自分の困難な持病を乗り越えようと、小さな教会を運営しながら必死に「神の愛」に縋(すが)り続けます。
トーシツ患者故の、純粋な心に満ちた神への愛の賛歌の数々です…。

〇   〇   〇

純のキリスト教信仰ブログ」(最新記事は2020年2月18日)

純氏は「(イエス)の力」をこう表現します。

神の力はすごい。たとえばあなた(読者)が部屋を掃除できないで途方にくれているとする。5分待ってみてください。別の力があなたを動かし、あなたは部屋を掃除していることでしょう。この別の力というのが神の力なのです。だから私たちが無力なとき、するべきことは神に委ねる、ということです

(そしてまた、別記事にこうも記しています)

主が、明日、越谷の母のところへ行きなさい、といわれる。さあ困った。身体はこわばっているし、とても片道2時間半の越谷なんて、と思って寝てしまった(が、)起きてみたら、力がわいてくるではないか。大丈夫、いける、そういう確信が与えられた

この「信仰の事実」を「神に任せたお陰」、更には「神の力」と呼んでいいのか悪いのか…。(つまりクリスチャン流の「功徳」)
多分、普通のキリスト教徒はこう言う書き方はしないはずでしょう。しかし、彼は純粋な気持ち故のこの表現方法だったのでは、と想像します。
彼はまた、神の力を別の言い方でも話します。

自分の力によって罪から解放されようと思っても無駄。…神が罪より解放させてくださる
僕には効力というものがなく(やる気が出ないということ)聖霊に任せるしかなく、今も聖霊によって病院に行ってきました???

罪からの解放」とは、簡単に話すと「イエスを信じる事の出来る自分になる」、と言うことです。
キリスト教教学は、ある意味「念仏」の考えに酷似しています。(念仏がキリスト教に似ている、と言う表現もあるかとは思いますが)

この教義故に、キリスト教徒の考えは「他人、そして自分自身の努力」という存在は、公の場では兎も角、信仰的には決して認められることはありません。
その問題について、彼はこんなエピソードを添えています。

大和教会の、大川先生が、車田秋次先生に、「どうしたら牧会に成功するでしょうか?」と尋ねた時、車田先生は「それは聖霊様のお邪魔をしないことだよ」と答えられたそうだ。私は、そうか、教会は神が立ててくださるものなのだ。変な根回しや人間的努力などいらないのだな、と改めて感じた

聖書には「神からの一方通行的な信仰強制」が、様々な形で説かれています。しかし、「人間の幸せ」と言う問題は一言も書かれていません。神にとって自分への賛美はOKですが、しかし神は人間に対しての興味は全く持っていないのです。
そんな宗教を信じる人々…。そして、その故に悩み続ける人々…。

ブログ主の純氏もその一人です。そしてその故に大いに悩み続けています。何故自分が悩むのかのその本当の理由も知らず、理解もせず…。
時折彼の口からこんな愚痴も出てきます…。

人を赦すのは大変だ。しかし、キリストは十字架であなたの一万タラントを赦してくださった。だから人の百デナリ赦すべきなのだ。
一万タラントというのは百デナリの60万倍だ。私たちはキリストの十字架で一万タラント赦された。ならばなぜ人の百デナリ赦せないだろうか。
十字架で一万タラント赦された私たちがどうして人の百デナリ赦せないことがあろうか。これは本当に難しいことだが、自分の罪を知っている人には容易なことだ。
あとは時間が必要だ』

 「あとの時間」で一体どう言う展開が待っているのか…。何となく、信仰心とその拒否感の間での堂々巡りの話に聞こえます。
純氏はこの「堂々巡り」を別の言い方でこう話します。

世の中にはイエスを信じていながら十字架の全く分かっていない人々が多くいることに気づいた。かくいう私も十字架を知ってから十字架がわかるまで24年かかった
安心してください、有名な大伝道者でも、罪の赦し、がわかっていないこともあるのです

十字架を知る」とは、要するに「イエスの許しと、自分の自分自身への許し」という事です。
上述の文は学会の信仰に置き換えて表現すると、「24年間もの学会活動で、やっと初心の功徳を頂いた」と言う事になります。これがどんな意味を持っているか、普通の学会員であれば理解出来るはず…。
更におまけに、「有名な(有名とは、学会で例えれば副会長クラスの人間)クリスチャンでも」未だに功徳の実感が無い、と言う意味の話まで出しています。

この手の話は非常によく聞く話でもあります。
この話を単純に表現してみると、こう言う事ができます。

数十年の信仰にもかかわらず未だに神を信じることが出来ない

信じることが出来ないまま数十年間の信仰人生。しかし、かと言って退転する訳でもなく、別の宗教に乗り換える事もしていません。
偉く根性のある信仰者と言うべきか、若しくは馬鹿者…と表現すべきなのか。

私は、今55歳である。行方のわからない娘が一人いる、彼女も28歳くらいで、もし子供がいるとしたら、私はおじいさんになってしまう。それはいいのだけれど、やはり娘に会いたい。本能的な親心である。一体どこで何をしているのだろう?

自分の宿業を彼は見ているようです。
その弱気の気持ちを振り切って…

今、私は聖書、祈り、PC,買い物以外は寝たきりだ。からだが疲れて仕方ない。友人に誘われて1500円のユンケル皇帝液を飲んだ。これが結構効くのである

でも、やはり更に弱気になる(サタンに攻められる)時も多々…。

思えば、私の生涯、罪ゆえに病気ばかりしていた。残された生涯は、とりなしに専念したいと思っている。罪は十字架の贖いで全部赦されているのである。問題は、主の働きである。これが疲れるのであるが、これからはとりなし(教会で行う信徒の神への取りなし)ばかりしていたい。しかしこれも疲れる。ああ、どうしよう!

ユンケルと神の同義性がいい感じで混ざっています。サタンにも負けずユンケルをごくごくと飲みながら頑張る純氏。
彼は自分の教会を維持発展させるため、今日も24時間頑張ります…!

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彼は何故こんなに頑張ろうとするのでしょう?
それは彼なりの立派な理由があるのです…。

『(キリスト)教会(と言う場所)は、まともに信仰を持っていれば携挙されるが、私のように高慢病の人が取り残されたらどうしよう。携挙と言えば、昔、黒人奴隷が苦しみから逃れたいがため造られた聖歌もあるくらいなので、患難前期説でも中期説でもどちらにせよ、これが第3次世界大戦、いわゆるハルマゲドンであったとしても教会は守られる(のだ)』

携挙」(けいきょ)とは、イエス降臨時での世界の破滅時、正しい信仰者達だけはそのまま天国に引き上げて貰えて、その他大勢の人間は即刻地獄落ち(イエスの1000年王国樹立)、と言う思想です。

この世は大聖人の言われる当に濁世そのものです。「諸法は実相」と言う厳たる事実を、彼純氏は知ってか知らずか無意識に「バトルフィールド」という言葉で表現しています。
現実とは、そのバトルフィールドで苦しみながらも自分自身、そして周りの環境の「宿業転換」を成そうと頑張っている人々が大勢います。

その行為そのものが「衆生所遊楽」なんですが、彼のような真面目ではありますが、如何せん間違った方向に心も体も向いている人間にとっては、自身の生活そのものが「苦」以外の何物でもないようです。

自分自身の中に存在する仏界の「事実」に気がつけば、彼のような本当に真面目な人間は一片に「救われる」はずなんですが、しかし凡夫の身である普通の人間にとって、害毒にどっぷり囚われた泥の中の人生から抜け出すのは、やはり並大抵のことではなさそうです…。


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