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おめでたい人間の哀れなブログ

ブログ名「創価学会を批評するブログ」(2014.9.9更新終了)のカテゴリー記事の一つ、「学会員が夢見る広宣流布の幻想」。

ある意味学会批判の典型例が書かれている記事です。そしてブログ管理人自身の「妄想」が一杯詰まっているものでもあります。

〇   〇   〇

ブログの彼は、日蓮大聖人の「広宣流布」をこう説明します。

「(広宣流布と言う学会員が考える理想郷は決して達成出来ない。何故なら…)創価学会の組織は本部職員など特権階級だけが安穏な地位と生活を享受でき、一般会員は活動に動員され搾取されるという二極化した格差組織・差別構造となっている。

一般会員は、特権階級(学会本部幹部連中)を支える為の労働階級及び実動階級でしかないのである。(例え将来)広宣流布を達成できたとしても、一般会員は特権階級を支える為にいつまでも学会活動を続けなければならず安穏な生活・安穏な人生はあり得ないのだ

…と。

上述の「お話」は、いわゆる「二極対立軸思考」と言われるものです。
判り易く言うと「共産主義的対立」。つまり、マルクス/レーニン思想で言うブルジョア階級とプロレタリアート階級の対立。ボリシェビキとメンシェビキとの対立。更には資本家と労働者との対立軸等を言います。

思考停止の学会批判者によくあるステレオタイプの考え方です。
こう言う対立構造を出すと、何となく自分の記事が格好いい様に思えます。更に、読む人間の頭が悪ければ悪い程、この手の時代錯誤理論が持て囃(はや)されます。
1950年~70年代ならともかく、今時バリバリの共産主義者が一体全体何処に存在しているというのでしょうか。中国共産党の連中だとて、本気の本気でマルクス・レーニン主義を信奉していると言う話は聞きません。
こんな社会や組織の世界が存在しているなんて本気で信じている人間は、「おめでたい限り」と言えます。

北朝鮮では最も過酷で悲惨な目に遭わされているのは北朝鮮社会の底辺に位置する一般大衆・一般人民であるが、創価学会でも同じく、最も過酷で悲惨な目に遭わされるのは一般の学会員なのである

ブログの彼は創価学会と北朝鮮を同列に見ています。
意外に本気なんだろうとも考えますが、恐ろしい程の僻目(ひがめ)でしかない様にも感じます。
確かに多々ある学会批判ブログには、この手の非論理的な無理矢理観なものが見受けられます。彼らは一体全体具体的に何と何を北朝鮮と同じだと思っているのでしょうか?本気で学会の活動と北朝鮮の在り方を調査して、そしてその結論としてそう判断しているのでしょうか?
どうもそうとは思えません…。

ブログの彼はかつて学会員だったと話します。

中には広宣流布の暁には自分が支配する側の立場になる事を夢見ている学会員もいるようだが(筆者が学会員だった頃、地区幹部にそういう事を夢見ていた人間がいた)、あいにくと、一般会員は支配される側であり、抑圧される側になってしまうだろう

彼は恥ずかしげも無く「実際にそんな人間(学会幹部)が居た」と断言します。
本当にそうだったのでしょうか?
妄想を持つ人間は、他人のどんな言葉を聞いても自分自身の妄想とマッチさせようとします。どんなに正常な信心の話を聞こうとも、それを歪曲するのです。
こう言う人間は、ある種の精神病患者に多い症状だとも言えます…。

それは兎も角、確かに彼のような種類の人間はこう言う見方に落ち込むことは、理解は出来ます。分かり易いビジュアルですから…。
学会都市伝説の最たるものなんでしょうか。

ある意味、「退転や逃避」を「覚醒」と無理矢理に言い換えるのと、若しかして同種の思考方法かも知れません。

ブログの彼は、感情的延髄反射の如く、学会員が「苦労」していると言う言葉だけを取りだして、その苦労する原因を「学会本部職員」に結びつけます。
会員が自身の生活や人生の宿業を「転換」するために、毎日毎日血の滲むような必死の「苦労」をしているのは、偏(ひとえ)に「本部職員」に全ての原因があるのだ。広布金も取られて更に苦労を重ねている…と。

『(学会幹部という)特権階級が、一般の会員と社会を支配する為の「創価城を築け」という号令なのであり、あくまでも特権階級の為の「創価城」なのだ。一般会員はその創価城の最下位に位置づけられ、権力者から支配される立場でしかないのである。
広宣流布とか立正安国とか理想的なきれい事を主張していても、結局は創価学会が権力を手に入れて社会を支配する事が目的なのであり、所詮一般会員は搾取され利用される対象でしかないのだ

この文章、ぼんやりと何となく読んでみると、学会活動に対するある種の「面白解釈」にも感じます。しかし、かつて一度は学会活動をしていたというその事実を鑑(かんが)みてみると、こう言う余りにもいい加減すぎる学会への偏見解釈は、やはり度が過ぎています。
そもそも論として、彼の「学会偏見物語」には「信心」という言葉が全く書かれていません。彼は自分の都合の良い感情的な、そして俗物そのものの感覚でしか創価学会を描こうとはしていないのです。

更には、彼の言全てには「」というものが存在していません。あるのは、「逃げ出した」学会に対しての意味不明の「憎悪」だけです。

戸田先生は「創価学会は広宣流布の団体だ」と話されていました。更に、「広宣流布とは、全民衆を幸せにすると言う事なのだ」と。そして、池田先生も同じお話をされています。
先生達の言葉には「対立」などと言う言葉は一言も含まれていません。
ブログの彼にとっての創価学会とは、単なる俗世間の組織でしか無かったようです。先生の言葉も幹部の話も、そして日蓮大聖人の御書からの様々な引用文も、彼にとっては文字通り「馬の耳念仏」、そして「猫に小判」だったようです…。

寂しい限りだと言えますし、下らな過ぎの俗物だとも結論できます…。

〇   〇   〇

広宣流布を目指して学会活動に励んでいる盲信学会員は実におめでたくも哀れな存在だと言わざるを得ない

彼は、最後にこんな言葉を吐き散らせて自分のゴミ溜めの記事を締め括ります。
宿業転換」の言葉も知らず、大聖人のお言葉も聞いたことの無い俗世に塗れたブログの主。

本当に『おめでたくも哀れな存在』の人間だと言えます……。


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