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「創価学会批評ブログ」★解体新書-Ⅰ

「創価学会批評ブログ」(~2014.9.9更新終了)

ウチのブログでも一つ二つ取り上げた記事も存在しています。

今回は、少々大がかりな作業になりますが、当ブログ全体をターゲットにした記事を掲載します。数回(現時点では回数未定)程度に分けて、ブログの彼の「学会批判精神」のその内側を覗(のぞ)いて見ようと思い立ちました。
何故なら、このブログには非常に多くの示唆に富む記事、そして思想が盛り込まれているからです。

ブログ主の彼はなかなかの勉強家です。学会批判世界に住む彼等の素顔、また本心を探る作業の中から、小さいながら我々の信仰の何かに役に立つものを、若しかして発見することが出来るかも知れません。
で、こんな無謀な連載企画を立ててみました。(無計画極まりないですが…)

学会批判者の彼にも彼なりの言い分はあります。
当然です。

彼の記事を読んでみると、非常に論理的に話を進めようと努めていることがとてもよく理解出来ます。
数は圧倒的に少ないながらも、彼は非常にしっかりした批判精神を持って「学会批判」を続けている貴重な一人だと感じます。

が、個人的には彼の思想の所々に論理矛盾、または意見の相違が感じられます。
小さいながらも彼のその矛盾を、今度は日蓮仏法と言う光の中に取りだして見て、そして今度は俯瞰的な「逆批判」を彼の思想の数数に対して行っていきたいと考えています。

勿論「意見の相違」自体に批判すべきものはありません。
が、基本思想の論点の矛盾やズレと言うものは、そのままにしておくととんでもないカオス的な結論に導かれてしまう危険性を持っています。そう言う彼の持っている自己撞着的な考え方を判り易く解体し、そして学会思想的に再構築すべく努力を払っていきたいと思っているのです。

そこから一体どんなものが見えてくるのか、現時点では私にも予想は付いていません…。

〇   〇   〇

Ⅰ)ブログ主の自己紹介(2010.01.08~01.27記事分)

ブログ主(ブログ記事では「筆者」と記載)は学会二世。退転者の例に漏れず、彼は親に知らぬ間に学会員にされていたと表明しています。

「筆者」の子供時代は特に疑問もなく学会について行っていたものの、成長するに随って学会の考え方に疑問がでてきました。(太字の部分が「筆者」の言い分です。記事からそのままコピペし、若干の段落、及び「てにおは」の変更は有り。※は補足。…以下同様)
で、その後は例の如きその他大勢の退転者の辿る道を彼も遅れずただひたすら、と言うお話になります…。

『…特に「仏法は勝負なり!」「戦え!」「闘争しろ!」「大勝利せよ!」と叫ぶ創価学会の闘争思想と体育会系の雰囲気にはどうにも馴染む事ができず、違和感だけが増大するばかりであった

 彼は当時の自分を振り返りながらこんな不満をぶちまけます。

学会のこれらの文言は、言葉だけを取りだして見ると確かに異様に感じる事も確かです。
「筆者」のものではなく別のブログの言い方では、「軍国主義的」と言う、少々キツい表現でそれを記していました。
言葉のそのもっと奥にある真の意味が見えない人には、やはり無理強い的な表現に聞こえてしまうようです。
「筆者」はこう言う学会の雰囲気になじめずに、ただ嫌な思いだけをしていたようです。

そんな中、そもそも創価学会が主張する学会教学なるものは果たして真理・真実なのかという疑いを持つようになった…

 …で、学会在籍当時の彼が学会の宗教思想以外に対しては全くの無知蒙昧だった事をその時猛烈に反省して、以後他の宗教文献を読むことにしたと言う事です。
彼はそれを「…独自に仏教の研究を始めた」と表現しています。

「疑問」を持った時点で、「自分自身」で学会その他の宗教教義を調べる行動をすると言う感覚は、「筆者」の彼はとても正常な、そして真っ当な批判精神を持っている証拠になります。こう言う行動様式は、他の雑多な学会批判者達の単なる「中傷」感覚とは雲泥の差だと言えます。
須(すべから)く「創価学会批判者」とは、こう言う真っ当な批判精神を持って欲しいと希望もしますが…。
しかし、「独自」の宗教勉強と言うものは非常な危険性も孕(はら)んでいると言うことにも警戒すべきです。

独自」は、いとも簡単に「我見」に直結します。

「信仰」(特に学会の信仰)は、「宗教学(門)」(科学的宗教学)とは次元を異にしています。
歴史事実の積み重ねである「宗教学」は、事実の瑕疵が見つかった時点で客観的な修正も出来ますが、「信仰」の場合、最初のちょっとした解釈の間違いによって、結果収拾の着かない程の酷い結論に導かれてしまうと言う事実が存在しているのです。

『…中村元氏や増谷文雄氏の著書を中心にして、仏教の歴史と思想の成り立ちを学んでいったのであった。
無論、学問としての仏教学と、信心・信仰としての仏教教学を同列には論じられないが、少なくとも、その信仰している思想の歴史観が歴史的事実であるかどうかという事くらいは正しく認識しておく必要があるだろう。

歴史的事実と合わない、あるいは歴史的事実を無視した、または歪曲した神話化された仏教史観を事実だと信じるならば、それは迷信となり、あるいは盲信・狂信となってしまうからである

学会批判者は、学会の「信仰(観)」を批判する為に「宗教学」の権威である中村氏の名前を必ず出してきます。「筆者」の彼も、その他大勢の批判者と同様の道を歩み出したようです。

宗教の勉強をする事はいいとしても、気を付けるべきは「信仰」と「宗教学」とはその帰する「目的」が全く違うという事を念頭に置くべきなのです。

信仰」とは、少なくとも創価学会の信仰とは「生活法」の事を言います。
「生活法」の目的は、自分自身の幸福の追求です。勿論演繹的に自身の幸福が地域、そして日本、世界の幸福の追求には発展しますが、基本の基本は「個人の絶対的な幸福」を最終目的としています。

対して学門としての「宗教学」は、科学として人間や思想を考えます。「宗教学」の最終目標は「歴史事実の確認」になります。宗教が生活法だろうと何だろうと、「科学」としての事実には何の影響も与えないのです。

この二つの相違の話は、批判ではなく「事実」を語っています…。

彼は記事中で、宗教の「学門」と「信仰」との違いも認めてはいますが、実際に勉強しているとその違いの「線引き」が何故か途中でゴチャ混ぜになってくる場合もあるのです。特に「筆者」の様な頭の良い人間はその時点で、本能的に「学問方向」に片寄ってしまうことが多い様です。

…彼は事実その方向に進んでしまったようです。

近代仏教学による仏教の歴史を学んでいくと、創価学会の主張する仏教史観は、歴史的事実と異なる事が判ってきたのである

それから彼は、創価学会と縁を切る為の行動、「学会からの脱出」を考える様になりました。
丁度その時に、いわゆる「宗門問題」がグッドタイミングで発生しました。結果、そのチャンスを逃さずに見事に学会から「脱会」することが出来たのです。

CONGRATULATION!!

…その後、暫(しばら)く彼は日蓮正宗法華講に属していましたが、ほとぼりが冷めた頃にその法華講からも離れて、そして今は特定の教団にも属さず自分独自の宗教観を自在に謳歌しながら、自身の人生を楽しんでいます。

さて、そんな「筆者」の彼は現在、「無神論者という訳ではないし、唯物論者というわけでもない」と自己評価をします。
そして彼は、自己紹介記事の最後にこう記すのです…。

『…美輪明宏氏も著書の中で「信仰と宗教は違う。宗教は企業と同じ」と述べているように、信仰=宗教ではないのだ

そして…。

『(※筆者の)思想的立場としては、原始仏教に説く釈尊の思想を基盤にしている

何となく自由で素敵な人生を過ごしている様に見える「筆者」の宗教生活です…。
自由自在な彼は、創価学会を一体全体どう見ようとするのでしょうか…?
そんな彼の学会批判に対して、どんな切り込み方が出来るのか…それを探っていきたいと考えています。

〇   〇   〇

「スピリチュアル」や「原始仏教」に惹かれる「学会退転者」も、表には出てきませんが非常に多いことも事実のようです。
そんな「筆者」のブログ「創価学会批評ブログ」を、以後数回に分けて「解体」調査したいと考えています。
若し興味を持たれた方が居ましたら、またこのページを開いて下さい。

「創価学会批評ブログ」解体新書-Ⅱに続きます


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4件のコメント

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