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学会という組織の必要性

組織が嫌い、だから一人で信心するんだ。周りに縛られないで自由に信仰生活をやっていきたい。
そんな人がいます。…意外に多いのかも知れません。

でも、現実生活の中に於いて何らかの「組織」に所属しない完全孤独の人って、果たして存在するのでしょうか?「生きていく」と言う事は、取りも直さず「社会組織の真っ只中」で生活して行く事であるはずです。その否定しようのない事実に目を瞑り、自分だけは一人でと言う話が、本気で通用すると思っているのかどうか、考えれば簡単に答えが出る問題であるはずですけど。

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彼(女)の心にある「一人きりの信仰」と言うのは、キリスト教での修道院の修行のイメージなんでしょう。また人里離れた荒野での修行なのかも…。でも、大聖人の仏法での信仰生活って、(一面の話ですが)たった一人で出来るようなそんな浅い教えのものでは無いと思います。

仏法の歴史を二千五百年と考えても、その間の仏典量たるや膨大な数になります。それをせいぜい十数年、でなくとも数十年程度の勉強期間で理解出来るものかどうか。「出来るんだ」と言い張る人が居たら、実際に会ってみたいものです。(でもまあ、何処かのブログにはゴロゴロ転がって居るようですけど…)

例えば有名処の「三障四魔」一つとっても、一人で信心している時に突然出た場合どうなるのでしょうか?右往左往するのが関の山じゃないでしょうか。結局出来る事は「退転」でしょう。学会と言う組織で活動している人でも「魔」には苦労させられています。ましてや相談相手も居ない単独での信心で、一体何程の事が来るのやら?

まことの時にいとも簡単に信心を忘れてしまう」と言うのが実際では…。

「組織が嫌いだから」と話す人は、信仰生活は周わりに志を同じくする人が大勢居るからこそ前向きにやっていけると言う事実を、完全に無視した発言です。自分に何かあった時に色々なアドバイスや話をしてくれて、そして励ましてくれる人が居る、それが組織の存在理由だと思います。

日本武道に「口伝」という教え方があります。形武道である日本古武道の最終的な教授方法です。技の「本質の本質」を師匠から直接伝授される事なのです。どんなに稽古をしても、師からのポイントを突いた教えがないと、結局武道の技は単なる「踊り」になってしまうのです。その教えを拒否する事は、取りも直さず稽古をしている武道の教えそのものを破壊してしまう事になる訳なのです。

単独での信心は必ず我流に落ち込みます。そして、その先にあるのは「教学読みの教学知らず」の自己満足の世界。御書の中心(精神)を理解しようとしない訳ですから、当然の帰結です。

学会の組織が存在する大きな理由の一つは別の言い方をすれば、自分が間違った方向に行くのを阻止してくれる事、そしてその事に対してアドバイスの出来る場を提供してくれる、と言う事ではないでしょうか。

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組織が自分を縛ると考える人は想像して下さい、自己流の間違った信心で「自縄自縛」に陥った自分を。

組織と自己流。さて、どちらが自分を縛っている張本人なのでしょうか?


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3件のコメント

  1. 望月宏章

    こちらのテーマについては、SGIアメリカにおいて、失敗の実績があります。
    「信仰は個人の自由にするべきだ」という運動が起こり、SGIアメリカは崩壊寸前までいきました。
    とはいえ、個人の思想を重視する海外ならではの、一度は必ず通らなければならない、価値的な失敗と考えています。

    • masahitokubo

      望月 宏章さんへ
      コメントありがとうございます。(「覚醒理由を考える」「覚醒というものを考える」、そして当記事、計3記事分のコメントをここに纏めて記してみます)

      「覚醒者」という言葉を、一体誰がどんな目的で使用し出したのかは、多分今となっては「退転者達自身」にも把握出来得ない事なのでしょう…。
      しかし、自分達の「退転」への後ろ暗さを誤魔化すために、何となく使い出したのでは…と言う想像は出来そうに思えます。

      一つの思想や行動様式を持った組織から、ある時点で別の組織に移ってしまうと言うことは、よくあることです。
      当時点で、当組織とは考え方が合わなくなったとか、人間関係の齟齬で居られなくなった等々様々な「理由」が考えられますから、それ自体は望月さんの言われる通り特に問題とすべきものではないはずです。

      やはり考えるべきは彼等の学会批判の「執拗さ」です。それも、「感情論的中傷」の執念深さです…。

      正当な批判は良しとしても、感情論が多すぎることは、どう考えても学会批判者達の批判精神は歪み過ぎているとしか言い様がありません。
      自分達の過去の身勝手な「依存症」は棚に仕舞って置いて、好き勝手放題に学会を批判し続けるその精神構造の歪さ…。
      その非合理的批判を、自らは誰も認めようともしない学会批判世界の奇怪さ…。

      ある意味、彼等の批判精神は「子供の世界観」一色に塗りつぶされているとも言えます。

      そんな「世界観」で絶大な人気を博しているサイトがあります。
      当サイトの管理人とは、過去に色々擦った揉んだもあって、よくサイトの中身の具合は知っていますが、彼のサイトは「学会都市伝説」「学会嘘話」「中傷創作話」オンパレードの代表格と言えるものになっています。
      記事の正確さ・不正確さを一切問題にしないゴシップ系大好物人間にとって、彼のサイトは最高最大の「遊び場所」だと言えるようです…。

      さて、アメリカSGIの危機は多分ですが、起こるべくして起こったものだと言えそうに思えます。
      仏法思想と言う、彼等の世界観からは全く別種の、そして全く新しい平和思想の「広がり」は、旧弊に塗れた化石的キリスト教思考者達から言わせると、文字通り驚天動地の考え方だったと言えるでしょう。
      人間って、生まれ育ちの環境や思考方法からは、それがどんなに「正しい」と頭で理解出来ていても、やっぱりなにがしかの抵抗感は持ち続けるようです…。

      でもそんな人達の中にも仏法思想は広がらざるを得ない状況だとも言えそうです。
      日蓮仏法の最終兵器は「個人の対話」と「功徳の結果」ですから…。

      キリストさんがどんなに「奇跡」を振りかざそうとも、そんなものは我々の生活にとっては全く何の「価値」もないと言うことは、「学会員」を地味に、そして真面目に続けている人であればはっきりと理解出来ることです。

      望月さんのコメント3つを読みながら、こんなことを考えました。
      参考…になればいいですが。
      また、何かひらめきましたらコメントお寄せ下さい。

  2. ピンバック:Hey Hey Hey、おまえのことだよ | MonLinGen

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