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「創価学会の現実」をアンチが騙る-Ⅱ

「自称」現役学会員が運営する(していた)ブログの記事の中から、彼ら覚醒寸前の人間達の考える創価学会の「功徳の現実」を今回学んでみます。

創価学会の現実』-功徳の現実(リンク切れ)

当ブログは、有り難いことに今は自主閉鎖されています。更なる「騙(かた)り」(嘘八百の話)による世間様に対しての今以上の公害は撒き散らされていません。

〇   〇   〇

前回「ブログ閉鎖のお知らせ」を採り上げて彼と一緒に盛大な退転祝いをしたものですが、今回は、彼の考える(と言うか、退転者全ての考えの)「功徳」問題を彼の記事から読み取る試みをしてみたいと考えます。

創価学会の信心に於ける「功徳」問題は確かに難しいものを抱えています。
本気で功徳を感じない人に対して、どんなに理を尽くし、様々な体験談を交えて説明したとしても、結局彼らにとっては馬耳東風の結果しかもたらしません。
この事は、創価学会の信仰生活を何十年も経験した人間でさえもいとも簡単に退転行為を行えるという現実がそれを見事に証明しています。

さて、今回のブログの彼は、今度は信仰の「功徳」と言うものに標的を合わせて学会信仰を滅多切りにしようと考えています。
しかし、彼の持っている刀はかなり刃こぼれが進んでいます。そんな役にも立たない鉄屑で一体全体何を切り刻もうとしているのでしょう…。果たして彼自身は自分のしている事が理解出来ているのでしょうか…。
当記事は、そんな滅茶振りの、そして混沌とした記事となっています…。

創価学会が、折伏する際の最大の売り言葉は「この信心をすれば功徳がある」で、「この本尊に祈って願いの叶わないことはない」と自信満々に言っていたものです。

そして、創価学会の言う功徳というのは(略)現実の生活に現証として現われなければ真実の功徳とは言えないと主張していたものです

彼は学会の話す「功徳」の意味をこう説明します。
この説明文は至って真面(まとも)です。過去の或る特定の時代、彼が取り敢えずは活動に頑張っていたんだろうと言うその時代の記憶がそのまま残っていたものが、ここに素直に表現されている様です。
彼はとても真面目な信仰者だったのかもしれません…。

創価学会は難行苦行の修行をすることなく、簡単な仏道修行でそのような功徳が得られるのだと力説していた(略)』

…と言う信心の説明になると、「おや?」と思えてきます。
間違ってはいないものの、若干の引っかかりも感じる彼の言い方です…。

『(略)だからこそ特に経済的に窮乏していた戦後日本で、そのような功徳に惹きつけられて多くの人々が創価学会に入信していったのでしょう。
しかしそのような理想に対して現実はどうかといえば、創価学会の言うような功徳を得られたという学会員はなかなかいないのではないでしょうか

彼は断言する様にこう言い放ちます。信心の功徳を受けた人間は学会員の中には極々少数派なのではないか、と。
言葉を換えて表現すると、要するに戦後様々な貧乏を極め、そして不幸のどん底にあった民衆の中には、創価学会の信心で立ち上がって幸せになった人間は、極々少数なんだ、と。

さて、そうなんでしょうか…?
彼は歴史も現実も完全に無視した人間の様に感じます…。

彼は、その強引すぎる主張を更に補強するためにこんな話を出してきます…。

『(なぜなら、彼自身の)長い創価学会の生活の中で、そのような功徳を貰ったという学会員にお目にかかったことがない(略)のが実感」だから、と…。

このフレーズは退転者の常套句となっています。自分の周りには功徳を受けたという人は見当たらない。だから、学会には功徳はないのだ。
彼の顔に付いている両目は、若しかして節穴…??それとも目に似せた単なるガラス玉…???

彼は頑として自分は「現役創価学会員なのだ」と強弁しています。
学会員だと自己主張しながら、片や信仰での功徳などは無いとも主張し続けるのです。
果たして、馬鹿なのかアホなのか、それとも俯瞰中毒者か統合失調症患者か…と言う理解出来ない程の彼の「お話」です。

長い(多分少なくとも数十年)の彼の学会生活の中で、功徳の実感を受けたこともないし、地区・ブロックでの功徳体験を聞いたことも無いと言う主張を、本気で、真面に受け取る人間などは、学会の普通の活動家には存在する訳はありません。
彼は(しつこいようですが)、本気で自分の事を「現役創価学会」だと思っていたのでしょうか…?
……記事類を流し読みする限り彼は、本気でそう信じているようです。

彼は更に、聖教新聞の体験談についても意見を表明します。

華々しくもドラマチックな功徳の体験談が花盛り(の聖教新聞だが)』
『(略)自分も含めて周りを見てもそんな功徳を受けた人間は皆無

多分ですが、彼の在籍していた組織は「創価学会」という団体名ではなく、「お念仏講」の団体だったんだと思います。それを、彼はボケた頭の中で自分は創価学会に居たんだという妄想を……。
まあ、そんな皮肉も出てくる彼の主張です…。

信心の「功徳」は感じる「努力」をしないと「実感」は出来ません。
「感受性」は信心生活、日常生活共に大事な心のあり方です。

信心の功徳の感性は、それは文字通り体験に直接結び付きます。感受性の無い、またはそれが非常に弱い人間は、功徳を実際に受けたとしても「感じる」事が出来ません。
すぐ目の前に「功徳」が存在しているのに見ることも感じることも出来ない人間は、彼も含めて現実確かに存在しています。
…寂しい話ですが、確かにそうなのです。

今でも熱心なバリ活の人たちは、功徳を目指して懸命に学会活動に励んでいるんでしょうが、いつまで学会活動に励めば功徳がもらえるのか、考えもしないようです

彼は更にこうも言い張ります。兎にも角にも信心には功徳などは存在しないのだ、と。彼の二重三重の功徳否定の主張です。
そんなに功徳の出ない信仰をなぜ何十年もやっていたのか、それが逆に不思議に思えます。
よほど暇で何もやることがなく、有閑マダム的に何となく続けていたのでしょうか…。

結局、学会員はそういう現世利益の夢を見せられては創価学会のためにしかならないような活動に利用されているというところではないでしょうか

この話は要するに「学会員は学会本部に騙され続けている」と言う学会批判者の主張の別バージョンです。
このフレーズを出すと、批判者達が狂喜乱舞することを彼はよく知っています。
ブログの人気を維持するために彼もとにかく頑張っていたようです…。

信仰の功徳を、現実受け続けている彼以外のその他絶対多数の創価学会員は、こう言う彼の言い分を聞きながら本気で情けなさを感じています…。
寂しい未活動者の物語です。

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昔読んだ書物にこんな実話が載っていました。

カトリック宣教師から様々な基礎教育を受けたアフリカ原住民の、その後の自身の心境の変化を素直な感想として記したものです。

原住民の彼は、宣教師から文字を習うまで自然というものに対しての興味や感動は一切持っていませんでした。自分の周りに展開する様々な素晴らしい現象に対しては、ほぼ何の感覚も無かったと語っています。
しかし、白人の宣教師より文字、そして言葉を習うにつれて、自分の住んでいる自然の壮大さ、偉大さが徐々に理解出来たと言います。結果、自然の美しさがこんなに凄いものなんだと本気で感動したというのです。

この黒人の彼の話とブログの彼の功徳への感じ方が同じものだと言う事は出来ませんが、でも非常に似ている部分がある様にも感じます。
人間は、知識として「知らないこと」に対しては何も感じようがありません。事の本質を知って初めてその事に対して自分の感覚が目覚めてくるのです。
…理の当然と言えます。

さて、ブログの彼は、人生のいつ頃功徳の本当の意味を知ることが出来るのでしょうか…?


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