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学会と宗門の信心の考え方の相違

日蓮正宗のHPを初めて読んでみました。表紙部に「日蓮正宗宗務院」の言葉が入っていたので、一応正式なサイトではある様です。

サイト名は「正しい宗教と信仰」。御僧侶様や檀徒の人達はこれを読んで、余りの有難き御高説に随喜の涙を流して居られる事だと、そう勝手に想像した次第。
サイト全体としてはかなりのボリューム。運用には結構なお金が飛び回っているだろうな、などと要らぬお世話な想像も…。

〇   〇   〇

サイトcategoryの中に「創価学会の皆さんへ」という魅惑的なお題がありました。
宗門さんから素敵なお言葉が腐る程掲載されていましたので読んではみましたけど、信じられないぐらい膨大な量の項目があって、途中で止めてしまいました。(若しかして仏罰ものかな?)
でも残念な事に、どれもこれも何処にでも有るアンチブログの記事文章の丸写し。(今流行りの「カラコピ」かな)

大聖人から付嘱を受けた正しい宗門の御僧侶様とも有ろう方々が、この様な「コピペ記事」掲載のHPを作って、現猊下様の御尊顔に糞尿をぶっ掛ける様な、そんな事は決して意図してはなされていないと、個人的には信じております。

これは偏に編集・運用しているIT会社に全ての責任があるはずだと、私は心にも無く思っております。仏罰は彼らに放たれるようにと、そうも思っております。
でも若しかして、ついでに御僧侶様にもちょいとそのとばっちりは行く可能性も…。

まあそれはそれとして、当HPには種々の有難きお話しが掲載されていますが、今回は「信心の相違」というものを中心にピックアップして整理してみました。

日蓮正宗宗門の信心

日蓮大聖人以来の唯授一人血脈相承は、第二祖日興上人をはじめとする代々御法主上人猊下に受け継がれ、現在は第六十八世日如上人に継承されています。
日蓮大聖人の仏法は、この本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を根本とします

と日蓮大聖人からの血脈が富士大石寺(日蓮正宗)に流れていると、記されています。
そして当門流の「信心」とは、

この大石寺を総本山と仰ぎ、日蓮大聖人の仏法を実践して、広宣流布を目指しいている唯一の宗団が『日蓮正宗』です。
日蓮正宗の僧俗は、本門戒壇の大御本尊を信仰の根本とし、唯授一人の血脈に随順して、自行化他の信心に励んでいます。この日蓮正宗の信仰によってこそ初めて成仏が叶うのです

信心」=「法主に随順」する事である、とはっきり言い切っています。
そして、広宣流布は宗門を中心にして自行化他のお寺の信心をして行かないと、不可能との事です。
然るに、創価学会には正しい信仰(信心)は無いと、以下の如くのお言葉です。

日蓮正宗の教えから離れた創価学会には、もはや日蓮大聖人の仏法は存在しないのです。
日蓮大聖人の仏法を正しく信仰するということは、大聖人以来の血脈に随順して、根本の法体である本門戒壇の大御本尊を信受することであり、その信仰にこそ真実の功徳と成仏があるのです。
しかし、現在の創価学会員は、総本山大石寺に参詣することも、本門戒壇の大御本尊を拝むこともできない状態です。それは、創価学会が許されざる謗法集団と断定されたからにほかなりません

学会は謗法集団なんだとの断定を宗門様はされて居られるのです。謗法集団とは言うまでも無く、邪宗教の事です。学会の「実際している活動の事実」は何処か見えない場所に置いておいて、兎に角そう「断定」された訳です。
で、最終宣言としてのお言葉は以下の通りです。

日蓮大聖人の仏法を正しく信仰するということは、大聖人以来の血脈に随順して、根本の法体である本門戒壇の大御本尊を信受することであり、その信仰(大石寺の大御本尊にお目通りする事)にこそ真実の功徳と成仏があるのです

これが、日蓮正宗の僧侶様共が知恵のありったけを絞り切ってお作り申し上げた珠玉のHPサイトの結論。日蓮正宗信心の極意として、得意げに御講話下さっている全ての様です。

創価学会の信心

さて、創価学会は初代会長の牧口常三郎先生(以下「初代先生」と略します)により発会しました。
初代先生の日蓮仏法の解釈は、上に挙げた日蓮正宗仏法からは遙かに隔たったものです。と言うか、天地雲泥の違いが見られます。

かなり迂遠になるかもしれませんが、先生の著作である「創価教育学大系」及びその他の著作物、書籍類を元にしながら説明します。
昭和初期当時の文章は少し古文的ですので、現代風に一部の文言を修正しています。また(注釈)も入れています。

先ず、初代先生は宗教の生活を「大善生活」と呼んでいます。
大善とは、

「…大善生活は個人主義の生活や独善主義の生活では無く、ましてや臆病なる寄生主義の生活でも無くて、勇敢なる全体主義の生活なる事が判るであろう。全体主義とは言え己を忘れるが為に、言うべくして行われない様な空虚なる偽善生活では無く、自他共に共栄する事によって初めて、完全円満なる幸福に達し得る真実なる全体主義の事である」(『創価教育学大系』より)

初代先生は日蓮正宗の信仰を科学的に解釈します。
そして宗教とは「応用科学」だと言います。科学とは、Aを行えば必ずBの結果が出るという法則の有る事です。
宗教が科学だとすると、その真偽(功徳の有無等)を試す為には、以下の実験をしてみるのが間違いないと話します。

所謂真理(ここでは日蓮正宗の信心)が人生に役立つだけの価値があるか否か(功徳の有無)、それが多いか少ないか(功徳の大小)の問題は、体験によって生活に証明するより他には解決の途は無い。

(中略)一度確立した(信心の体験の法則)以上は、その言う通りに従って応用してみれば良い。そして予定通りの結果が起こったならば、もはや無条件に信じて良いでは無いか。若し万一、言う通りに結果が顕れなかったならば、初めて疑問を起こして、再び考え直す必要もあろう(後略)」(『創価教育学大系』より)

「(そうした種々数々の体験が)仏教の極意たる『妙法』が万民必然の生活法則たる事を、科学的に実験証明しようとするのが我らの企図であったが、今や数万の正証反証(幸不幸の信心体験)の累積によって、単なる哲学的なる抽象概念としての真理たるに留まらず、生活の実相(現実の姿)に顕れる生活力の限りなき厳選として」日蓮仏法が証明される様になった。(『全集』より)

非常に論理的、そして先生の話される如く科学的な考え方です。
初代先生の語るこの様な宗教解釈は、過去の日本にも世界にも全く存在していませんでした。現在の宗教学者と言われる人でも、ここまで達観した宗教哲学を築いた人間はいません。

さて、創価教育学会(創価学会)の目的は、以下の通りとなっています。

創価教育学会は単に日蓮正宗の教義を布教する宗教団体であるのではなく、日蓮仏法を根拠としながらも、『その信仰を各自の生活に実践して、宗教と生活との関係を科学的に観察し、その価値の有無と多少を実験証明して、自他倶安に至らんとする』と言う事なのである。
(中略)
牧口は新しい宗教運動を展開するに当たって、少人数による指導や体験を語り合う座談会を重視した」(『牧口常三郎の宗教運動』より)

真の正しい宗教は、当事者の生活に現証として顕れる事が絶対必要だと言う事。
そして創価教育学会は真の宗教を自身の生活改善運動として活動していく、と言う事が目的だという。実験証明とは正しく信心をして、そしてその結果を出す事を言う。
正しく信心をするという事は、以下を意味する。

「(日蓮仏法を行じる事により)魔の出るのは法則、大聖人の御時には最高の天台宗にさえ魔の出るのはなく、(出したのは)大聖人御一人であらせられた。現在は最高の日蓮正宗にさえ魔の出るのが無い。
(しかし)魔を恐れてはならない、従ってはならない、何故ならば(その魔は)小罰であるから。

(中略)…互いに実験証明をし合う三位一体の関係を連鎖するのが、(創価教育学会の)座談会の目的である。お経を『事』(生活の中)で行って『或示己事、或示他事』(種々の功徳を受ける事)の通りに大善生活して、法華経の真髄を解し、広宣流布の為『見せる法華経』でいけ」(『五月十日の中の支部座談会』にて)

更に、

信者と行者と区別しなければならない。(中略)即ち観心になって他人に施すのが真の信者で有り且つ行者である。が、さてそうすると必ず魔が競い起こるのであって、日蓮大聖人は『この法門を申すには必ず魔出来すべし。…天台宗の人々の中にも、法華経を信ずる様にて、人を爾前へやるは、悪道に人をつかわす獄卒也』と仰せられた。
日蓮大聖人御在世当時の天台宗の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問わねばなるまい。そして魔が起こらないで、人を指導しているのは『悪道に人をつかわす獄卒』ではないか
」(『座談会会場にて』戸田理事長も参加)

正しい日蓮仏法を行じると言う事は、取りも直さず『魔出来すべし』(魔を呼び出す)事である。『魔』の出ない信心は、日蓮大聖人の信心では無く、逆に『悪道に人をつかわす獄卒』であると断言されています。

相互の信心の相違

学会と宗門の信心のあり方を比べてみるとこうなります。

宗門

日蓮大聖人の仏法を正しく信仰するということは、大聖人以来の血脈に随順して、根本の法体である本門戒壇の大御本尊を信受することであり、その信仰(大石寺の大御本尊にお目通りする事)にこそ真実の功徳と成仏があるのです

『魔の出来(しゅったい)』や『三障四魔紛然』の文字の一言も出てきません。
非常に不思議な思いに駆られます。

創価学会(創価教育学会)

『(日蓮仏法を行じる事により)魔の出るのは法則。(中略)しかし、魔を恐れてはならない、従ってはならない。
日蓮仏法を『事』
(生活の中)で行って『或示己事、或示他事』(種々の功徳を受ける事)の通りに大善生活して、法華経の真髄を解し、広宣流布をしていく事』(一部文言変更)

繰り返しになりますけど、日蓮大聖人の御書には

此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず

との御金言がはっきり載っています。
大聖人、日興上人の正当の後裔だと自分達をお呼びになって居られる大石寺そして、それに随順する門徒達。日蓮仏法の正法(下種仏法)を行じたその結果の現証である『三障四魔』が何処の誰に『紛然と起こ』っているのか?『魔』の『出来(しゅったい)』が一体どの寺に出ているのか?
『立正安国論』を元にした国家諌暁が日蓮仏法の究極であるはず。御僧侶の誰がしているのでしょう?

 

「富士の清流」と言う言葉がよく正宗信徒連中のサイトに出てきます。
「清流」というのはHPの文言から考えるに、静かで何事もないと言う意味にとれます。『魔』などと言う煩わしい事に気を遣いもせずに、呑気に毎日をお過ごすことが、彼らの言う『信心』らしいのです。

初代先生は戦中当時の僧侶の信心のあり方を称して以下の様に話されています。

「(今の日蓮正宗僧侶達は)信仰と生活とを遊離して考え、全然別個のものと見なしている

日蓮宗の僧侶の中心にある興味は、要するに自分たちの身を挺した(国家)諌暁ではなく、寺の存続のみである」(『座談会会場にて』戸田理事長も参加)

 

横道に逸れる話になりますが、宗門の大聖人の信心から遊離した考え方から抜けられなかった宗門は、あろう事か軍部に迎合して御書の文言削除にまで手を伸ばす。

戦時中宗門は軍部政府に押されて御書の文言の十四箇所を削除した事実がある。
驕慢の坊主・小笠原慈聞に恐喝まがいの言動により、日蓮正宗の伝統であった国家諌暁をしなかったばかりでは無く、弾圧を恐れて自ら日蓮の教義を捨てるという行動を取った」(『牧口常三郎の宗教運動』より)

初代先生は、法華経の文証通りの信心の結果三障四魔を呼び起こしました。その結果『天子魔』として変貌を遂げた当時の日蓮正宗宗門から裏切られて獄中の人となり、そして殉教されたのです。先生は監獄での尋問の時ですら官吏に対して折伏をされていました。(官吏報告書として残っている)
然るに宗門は先生を軍部政府に身代わりとして差し出し、己が安泰を決めこんでいた訳です。

現在の日蓮正宗宗門と何処か似ていませんか?

現創価学会は三障四魔を出し切って闘っています。然るに宗門連中は

我れ富士の清流なり。法主猊下を崇め奉れ!!創価学会は悪魔の教えだ云々

得意げな話をHP載せてアンチ連を味方に付けながら安泰を決めています。

でも、宗門が学会を嫌うのは、自身が『魔』の当体として、『邪教』の当事者として当然の行動なのかもしれません。普通自分が魔などと考えたくもないですからね。
その『魔』を紛然として呼び起こし続けているのが、当時の創価教育学会であり、そして現在の創価学会なのです。

〇   〇   〇

大聖人の仏法に照らしてこれだけの明確な証明が出ているにも関わらず、未だに「富士の清流」、「大御本尊にお目通りの信心」などと言う、地獄の獄卒でも口にするのを憚るような言動をし続けている現在の宗門連中。

個人的な意見ですけど、彼ら宗門連中には現罰は出ないと思っています。何故なら彼らの無間地獄落ちは、大聖人により完全に確定済みな訳ですから。


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