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「自分の出来る活動」を考える

創価学会の活動は、基本的には池田先生の信仰生活をトレースしようと努力しています。先生の活動を模倣しようとしているのです。それが基本方針となります。

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先生はある意味天才だと言えます。勿論努力の人でもありますけど、何でも出来る人である事は確かです。学会のそんな雰囲気の中で「活動の出来ない人」にとって、自身の居場所を確保する事はとても至難の技(わざ)と言えます。
ブロックにしても地区にしても、様々な活動方針の難問が幹部連から押し寄せてきます。勤行、唱題、座談会参加は勿論の事として、新聞啓蒙、折伏、友人対話、ある時期は選挙応援……叫びたくなりますが、でも何処にも逃げ場所がありません。
創価学会は上記の活動を、一人の部員が全て熟(こな)す事を期待します。

出来ない人にとっては、唯只管(ひたすら)辛い、しんどい、面倒臭い…となります。愚痴や圧迫感で心の中が鬱々(うつうつ)となっても来ます。
どれか一つでも遣り遂げる人は会合で喝采を浴びますが、出来ない人はそんな光り輝く場面には立つ事が出来ません。現実的な話、スポットライトを浴び続けられる人はほんの一握(ひとにぎ)りの人だと言えるでしょう。
大半の人は、何も出来ないまま悶々(もんもん)としながら学会生活を送る事になります。真面目な性格の学会員であれば有る程、その後ろめたさは半端ではありません。

こういう悩みを持っている人は、案外少なく無いのかもしれません。でも活動の出来ないと言う悩みは、そんなに簡単には表には出せません。

「活動家」と言われている人々は「出来ない人」の気持ちは分かっているようで、意外に理解していません。学会が凡人の凡人たる集まりである由縁がここにあります。

「じゃあ、一緒に頑張って行こう」

と言う話になりそうですけど、結局その言葉も理想論に近いものとなります。
指導、アドバイスをする人は勿論それは全面的な善意の行為でしょうが、やはり受ける当人にとっては「はい、分かりました、では今日から…」なんて事にはならないようです。真面目に活動をしようと努力するものの、受けた指導通りには出来ません。

で、余計に落ち込みます。
その真面目な思いの中に「三障四魔」が着け込みます。

若しかして「覚醒」に走る人は生真面目な性格の人間が多いのかも知れません。真面目が故に背水の陣の形を取り続けて、そして疲れ果てた後結局道を誤る…。そんな人はかなりの数いる可能性もあるのかも。
例えそうだとしても、それを肯定している訳ではありません。感情論としては、何となく理解出来そうだと話しているだけです。当然その責任は当の本人に返ってくる訳でしょうから…。
どんな原因にせよ、いくら屁理屈を付けたとしても、退転を選んで彼方(あちら)の世界に行ったなら、もう後戻りは出来そうにありません。

どうすれば良いのでしょうか?
その道を選んでしまう前に、やれる事はあるのでしょうか?

題目は当然です。その上での話になります。でないと上滑りの話しか出来なくなります。
また、「信心指導」を受ける事も大事です。しかし指導を受けると言う事は、ちぐはぐな話を聞く可能性もあるという事も覚悟しないと駄目です。題目の基礎が無いと、折角の指導も根無し草の話しとしてしか受け取れなくなり、結局面倒な荷物を更に背負う事にもなりかねません。

出来ない事は全て切り捨てる

そして、

出来る事しか、やらない

…極端ですけど、こんな発想の転換をしてみます。

真面目な人は、幹部の打ち出しに懸命にメモを取りながら、その全てをやり切きろうと頑張ります。でも、もうこれからはそんな事は一切止めにして、気に入った話しだけをノートに記載、そして他の事は聞き流す事にしたらどうでしょう。頭に残すから悩む訳で、何も残さなければ聞いた事にはなりません。聞かなければ当然の如く知らない訳ですので、やらずに済むのです。

この提案は学会の指導からはかなり外れた考えですけど、悩み過ぎて自分を追い込んでしまうのなら、それを避ける為の一つの選択肢としては、私は在りだと思っています。
切り捨てるべきものを切り捨てる「勇気」。
…先生の話される『勇気』とは若干の違いもありますけど、信心を「続けて行く勇気」という意味からすると、私は同義だと考えています。

信心は続け切って「なんぼ」のものです。
学会活動をしないと罰を受ける…。この歪(いびつ)な考えから抜け出さないと、いつまで経っても同じ場所をグルグル回り続ける事になります。
「宿業」は自分の元々持っているものが出ます。学会活動を続けていてもしっかり出て来ます。ただ、その「転換」作業の方法を教えてくれるのが学会という組織な訳で、離れると方法が分からなくなると言うだけの話です。

別の言い方をすると、宿業転換の努力を続けている限り、「仏罰」など顕(あらわ)れる事はありません。

冒頭に出した「創価学会の信心活動は池田先生の信仰活動を理想(トレース)としている」という話は、出来る人に対しての指導だと思えばいいのです。出来る人に合わせる事は難しいのです。出来ない事を「出来る振(ふ)り」をする、そんな誤魔化しの活動を続けて行くから辛いのです。勿論その辛さを乗り越える努力の意味は学会指導通りの事ですけど、それに潰(つぶ)されるぐらいなら、切り捨て御免も許されるんじゃないかと、そう思うのです。

広宣流布の活動の中で何か一つでも出来る事は何か…。考えると色々ありそうです。

毎日題目三唱を地区やブロックの人に送る。それだけでも立派な公布の活動だと思います。絵が得意であれば何かのイベントで描いてみればいい訳だし、文章好きなら大会のパンフ作りに参加も出来ます。人に会うのが好きであれば会う活動をしていけば良い。
全活動が得意と言う人は多くはいません。得手不得手があるのが人間の常(つね)でしょう。得意なもの「だけ」を前面に出せばいいと、そう自分で割り切ればいいのです。

何も無ければ、上記の通り題目を送ればいい事です。題目に関しては、誰も文句の言いようの無い立派な広宣流布の活動になります。

「私は何もできないですけど、題目を地区(ブロック)に送り続けています」と話せばいいのです。

で、後の活動は知らん顔をしてればそれで良し。何も悩む事は無くなります。自分にも誤魔化しはないし、地区の人にも顔が立ちますよね。(もっとあげなさいと言う人も、あるいは居るかも。でも、頑(がん)無視を決め込みます)

一つの事をやり続けていると、若しかしてそれが「自信」になって来るかも知れません。

学会活動に悩んでいる人は、真面目すぎる事が活動のネックになっています。そのネック(瓶の首)を逆に利用して「それだけに特化した活動」をやればいいのです。

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「何かをやろうと努力し続けている事が大事」なんだと思います。それが他人から見て小さなものだとしても。…他人様と言うのは意外に冷たいものなんです…。
学会活動は「義務」ではないはず。自分を誤魔化してまでやる「義務」はないはず。出来ない事を努力しながら出来る様になるという事も大事です。でも、自分が今出来る事を自信を持ってやって行く事も、若しかして大事な事なのかもしれません。

努力は大事です。でも、悲壮感を持った努力の辛さはただ自分を惨(みじ)めにするだけです。考え方をアクティブ(前向き)にして「自分が出来る事は何か?!」を考えていく気楽さも、若しかして大事なのかもしれません。


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