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功徳の話

功徳を要約すると「いい事が起きる事」となるようです。これ以上説明も不要になってきそうなぐらいに単純な文章です。
でもこれは世の中の誰にでも起こる現象、学会員限定なプレゼントでも無さそうです。

「信心上の功徳」とは一体なんなのか、「功徳」の説明が可能かどうか…。若干考えてみました。かなり独善的な話になりますけど、もし良かったら読んで下さい。

〇   〇   〇

創価学会を長くやっていて「功徳」の実感が無いと言う人は、学会教学の理論上は皆無だと思います。「功徳」が無いと自分で判った時点で、学会の信心を止めているはずですから。でも「初心の功徳」は例外なく誰にでも出る訳で、「功徳が無い」と言うより「功徳を感じない」と言った方が良さそうです。

「功徳」は自分自身で感じないと功徳にはなりません。「功徳が出る」と言う言い方はこう言い換えた方が良いかも知れません。

感受性の弱い人には功徳が出ない(または感じない)」と。

折角出た功徳を感じない訳ですので、「功徳が無い」と断言しても余り変わりはありません。
「功徳のカラクリ」ってどう考えれば良いのでしょうか?若干の強引さとかなりの疑似科学を駆使して、何となく屁理屈を付けてみます。

「功徳=良い事」との前提を受け入れ、更に別の表現を加えてみると「=運の良さ」とも言えます。
「運」は非常に幅の広い言葉ですが、「功徳」に最も近い言葉でもあります。「福運」という学会用語もありますし、近似的に使用する事は許されそうです。
宿業の話を別とすれば、運というものは世界中の誰にも「平等」に持っているはずです。まあ若しかして、ある人は108、またある人は95という感じになるかも知れませんが、でも足して割れば大体平均化されるはず。

…なんでしょうけど、現実の世の中を見るとそんな単純さは一向に感じられません。

「努力」をすれば何とかなる、と言う話も出てきそうです。本気でそう思って居る人は、未だに中学生程度の精神状態だと言えます。後少々…大体30年程度世間の波を浴び続けないと、想像すら出来ない話でしょう。「才能」と言う事も出てきそうですけど、これも努力と似たり寄ったりです。努力、才能どちらも否定している訳ではありません。大事な事だと思いますけど、これだけでは如何ともし難(がた)い世の中の仕組みです。

これがネットの世界とは別物の、ほんまものの現実の世界だと言えます。

学会二世以上の人に考えて(思い出して)頂きたいのですが、子供の頃、青年の頃は意外に世の中を巧く進んで来れたと言う記憶はありませんか ?そんな感じもないでは無かったかな…のはずです。でも、いつの間にか苦労の絶えない人生になってしまった…のでは無いでしょうか。

私は「人3倍」鈍い人で、上記の如くの経験があるにも関わらず、ハッと気づくと全く遅かりし…という生き方をしていました。「福子」(学会二世以上の人)は大体に於いて似たり寄ったりの人生だったかもしれません。

途中で持っていた「福運」が、すっかり切れてしまったんですね。

親の信心のお陰で積み重なっていた「福運」(功徳)が、親からも、信心からも離れきって何となくの生活をしている或る日、綺麗さっぱり「福運」の「ふ」の字も無くなっていたと言う事です。生活が落ち込んで、自分に「運」が無いと気付いて初めて思い起こす自分の「運の良さ」でした…。盛大なお祭りが終わって数日後の、閑散とした街角を眺めている気分でしょうか…。
またある人は、信心を続けている時期は考えもしていなかった事ですけど、ある日「覚醒」をしてしまい、何年も経った時に痛烈に感じる「運」の無さ…。

福子で無くとも感じる哀愁でしょうか…。

さてその原因が果たして「運」の有無だろうか、となると思考停止になるのが人の常。余程の信心の強信者で無い限りは、原因究明は不可能となります。

「運」「福運」(=功徳)は持っているものも含めて、信心の強弱で増減します。…とはっきり宣言します。「そんな事は決して無い!」と更に大きく宣言する人は、それはそれでお好きなように生きて行って下さい。

「地区の名簿にただ載っているだけ」と言う人は、学会員とは別物ですので、話の対象外は当然です。
題目、学会活動その他諸々(もろもろ)、広宣流布に役立てようという気持ちの活動は全てに於いて、福運(功徳)の割増しに寄与しています。これは「経験則」と言ってもいいもので、経験した人でないと決して信じられない事柄です。信心の体験(経験)で功徳が出る、でも理由はよく分からない。

「そうなんだ」と考えるしかない「経験」です。

論理学に「演繹法」という思考方法があります。通常の有り方は帰納法と言い、事実を一つひとつ積み上げて結論に到達します。演繹はいきなり結論に飛び込み、それを「前提」にして話を進めていく方法です。
これは東洋思想の考え方です。日本の思想全般にもそれは根付いている哲学です。

功徳は存在する。しかし、それは信心活動から発生するものでもある

との前提を最初に置きます。そしてその後はその前提の「証明作業」になるのです。証明とは当(まさ)に「体験」を意味します。「体験」とは上の話を自分自身で「証明」する事です。
西洋哲学(思考方法)に馴(な)れてしまった日本人にとっては、この方法は逆転の発想と言えます。

「そんな話は非科学的だ!」

そんな中傷を受けます。「呪文じゃあるまいし」とも。

意外に知られていませんが、日本の古武道全般に渡っての武技の稽古は、この演繹的な方法で行われています。
初心者には先ずその武道の「奥義(おうぎ)」を教えます。そして奥義の技を中心に、行きつ戻りつの稽古方法になります。奥義技が「何故そうなのか」を考えながら稽古をやって行くのです。それが東洋思想(演繹法)の稽古方法なのです。
…稽古は何十年も続く事になります。果てはありません。ウチの杖術の先生は免許皆伝者ですが、未だに悩みながら稽古をしています。それ以下の弟子達なら、尚更です…。

信心も同じでしょう。

東洋思想の奥義である処の「仏法哲学」が、帰納法で理解出来るはずはありません。理解出来ると考えるグループもありますが、よく彼等を見てみると、議論している事柄は表面の誰にでも解釈出来る文言を何となく「お触り」しているだけです。
仏法というものが、そんなお遊び程度の議論で理解可能と思い込む人間は、完全に狂っているとしか言えません。
演繹法を別の言い方で表現すると、自分で歯が立たない難しすぎる思想は、

先ず信じて、それから考える

自分が頭が良いと自己賛美する人はそれが出来ません。チンケなプライドがそれをさせないようです。そんな方々は何となく何処か近くに居るような気もしてきます…。

先端科学でも演繹的な話が実際に存在しています。

相対性原理の「光速度」…30万Km/s
不確定性原理の「シュレディンガーの方程式(猫)」…重ね合わせの原理。

この二つは当に「原理」を決めてそれから原因を追及している話となります。何故そうなのかは未だに謎の話です。宇宙そのものがそう決めているんだ、と言うしかありません。

「功徳」というものもこう考えるしか無いようです。

でも、実際に信心によって出ている功徳(感じる功徳)は、誰がどう言おうと崩れる事はありません。自分の体験を他人様にどうこう言われる筋合いも無い訳ですからね。
ただ、その功徳を中途半端なままに自分の中で変に「発酵」させると、「過ぎたるは及ばざるが如し」で、間違って「覚醒」させてしまいそうです。

お互いに気を付けて活動しましょう…。

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科学的に「功徳」を考えていくと言う事は、非常に難しいか、若しくは全くの不可能と言えます。智慧の無い末法の衆生としては「以信代慧」、信じる事から始めないと何も進まないようですね。


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1件のコメント

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