信心の「功徳」は、その人の持っている「感受性」の強弱によって、それぞれの「受け取り方」が違ってくるように思えます。そして、受け取った功徳の強弱で、その後の「信心の在り方」が変化していくのでは、と考えます。
「信心の感受性」と言うものがあるんだと、若い時、ある学会幹部に聞いた事があります。その当時は、話の内容そのものがよく理解出来ませんでした。でもこの頃、若しかしてそんな事もあるのかもしれない、と何となく思う様になりました。
例の如く、この考えは学会教学上の正規なものではありません。…寄り道的な話として読んで下さい。
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当幹部は勿論、学会活動の意味(一生成仏)を否定している訳ではありません。学会員がそれぞれ元々持っている、信心の「機根」の事を話したんだと思います。信心の様々な出来事を体験して、それぞれの人がどう「感じる」か、そしてそこからどう行動するかの「感性」の意味の話だとも思っています。
学会員やアンチ学会員の事を実際に見ていると、確かに信心に対する「感受性」「機根」はそれぞれ違っている様に感じます。また、同じ学会員同士でも、先生の話を極端な場合、180度も違う解釈で聞く事も意外に多いようです。不思議と言えば、不思議です。
その原因のひとつは、「功徳」の受け取り方、なのではと考えるのです。
「信心の功徳」を受け取る事の出来る「感受性」は、個々人違っているようです。
感受性の強い人は、頂いた「功徳」をストレートに、「信心の功徳なんだ」として受け取る素直さ(感受性)を持っていると言えます。「中」ぐらいの人は、「中」ぐらいの功徳の受け止め方をするでしょう。功徳の感受性の皆無の人は、結論として「功徳皆無」の人となります。
これはとても大事な事かもしれません。
信心を何年、何十年やっていても、上記の様な話が出てくる訳です。
何故こんな極端な話になるのでしょうか…。
やはり「感受性」と見るのが分かり易いようです。
「功徳」に対しての「感受性の強い」人は、小さな事柄でも「功徳」と感じます。誰に憚(はばか)る事無く、「これは信心の結果なんだ」と言い切る事が出来る人です。「運」「偶然」という言葉も出るでしょうけど、そんな話は鼻も掛けないぐらいの強さを持っている人です。こんな人の「功徳」は大きくなる一方でしょう。信心上の全てを功徳と感じる訳ですから、信心そのものの強さ・遣り甲斐も大きくなる一方です。
逆に、感受性の弱い、または皆無の人は、言わずもがなの話になります。
「信心を強く持ち、負けない心を…」と先生の話。
…でも、どうやって?
若しかして、「功徳への感受性」を敏感にすることが、一つの方法なのかもしれません。
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「感受性」を強くする為の方法は…。月並みな話で結局、唱題と学会活動への前向きの挑戦、これしかないという結論になってくるようです。
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