自衛官時代に、人生初の自動車講習所に入りました。いかなる免許も持っていないのに、いきなり大型自動車免許の講習です。(特別国家公務員的には、法律上可能だったようです)
同期の人も一緒で、彼も免許を持っていませんでしたが車にはとても詳しい人間でした。
自衛隊は「仕事の一環」として、大型自動車運転免許を取ることが義務付けられていました。
1ヶ月ほどはその車に詳しい彼に色々教えて貰っていて、非常に助けられていました。
苦労しながらも、大して好きでもない車の講習を何とか頑張っていましたが、ふと気付くと「彼」が居なくなっていました。
最終の本試験の時にも彼は居ませんでした。
あれだけの知識を持っていた人が…。と考えましたが、要するに彼は口だけ達者な理屈バカだったようです。途中の講習が辛(つら)くて自分の部隊に帰ってしまっていたのです。
よくある話ですが、未だに覚えている青春(?)の想い出です。
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前振りが若干長くなりました。
今回は実践不能の「理屈バカ」の話題です。
或るアンチ系のブログで日蓮大聖人の、そして創価学会の「仏法教学」を盛んに批判、論難しているものを見つけました。
ブログ管理人曰く…
『日蓮は仏法のことを何も知らない。「一念三千論」も彼(日蓮)一流の解釈の仕方で勝手に理屈づけただけのものだ。そして、その中途半端な仏法理論を、仏法を何も知らない創価学会(要するに各会長)が無批判に流用して、学会教学などと言う理屈を付けて知らん顔をしている…云々』(要旨)
…なかなか剛毅(ごうき)煥発(かんぱつ)たる彼の物言いです。
この話が本当であれば、ブログ主の彼そのものが日蓮大聖人に取って代わるべき天才的な法華経の真の「行者」だと言う事になります。
それだけの才能ある彼にとっては、競い起こる「三障四魔」に打ち勝つことなど赤子の手を捻(ひね)る程度に楽なものでしょうし、そして当然の事「宿業転換」などは100回ぐらい楽にしているはず…。
…などと、尽きぬ想像が重なりますが、はてさて「真実」は一体どうなんでしょうか…。
ブログの彼の、次の「お話」は以下の通りです。
読んでみると成る程、彼の仏教理論の天才性が沸々(ふつふつ)と納得出来そうにも思えてもきます。(※はMonLinGenの注記)
…先ず、創価学会サイトの「一念三千論」の説明を評してこう論難します。
『(略)残念。少し違います。
天台(※大師)智顗は「摩訶止観」において、一念三千の説明を一度しかしていないんです。
一念三千説を智顗の究極の極説として体系化した最初の人物は妙楽大師湛然です(略)』
(※つまり一念三千の仏法理論は、天台大師智顗が完成させたものではない、と言う事を彼は言いたいようです)
…信仰実践者(学会員)にとっては全くどうでもいい話を、鬼の首を取った如くに紙上で展開し続けます。
面倒臭い人間です…。
…また、天台大師の「摩訶止観」を説明する学会サイトを、下記のようにも批評します。まるでプロの仏法評論家の如しです…。
『(※学会本部の仏教教学部員連中は)「摩訶止観」をちゃんと読んでないと思いますね。
智顗は「摩訶止観」において「一念に三千を具するに非ず」「次第にも非ず」「故に理非造作と名く」と述べているわけで、一念三千とは本来、概念と表記の運動として捉えられるべきものでしょう。
つまり日蓮の一念三千理解は湛然の影響が強いのですが、そのことをきちんと理解も検証もせずに、「天台大師は」と言ってる時点で学問的に誠実とは言い難いです(略)』
彼は「非ず」が大好物のようです。私が考えるに、彼は文字通り「信仰者には非ず」なんでしょうけど…。
…また、教学サイトそのものに対してもこんな批判を行います。
『(※即身成仏も含めて学会の教学は)そのへん(※天台教学)の検証とか、そういうことの説明や考察が、この創価学会青年部サイトでは全くなされておらず、要するに創価学会教学部の言ってることをそのまま載せただけという、お粗末な説明であることは論を待たない』
…日蓮大聖人が、当時の天台教学に対してどれだけの批判をしていたのか、彼には何も判っていないことは「論を待たない」様です。大聖人の何故の論難だったのかも理解する頭も持っていません。
彼は、時代遅れの紙テープタイプのIBMコンピューターを、未だに後生大事に使っている人間なのです。今の時代のPCは、CPUはCORE i9で、メモリも数十GB、おまけにUSB3の時代だというのに…。
きっと彼の紙テープ(今で言えばHD)の中には、仏教知識として「正法、像法、末法」というワードは書き込まれていないのでしょう。
何だかな…と感じてしまいます。
…で最後に彼は、創価学会員の信仰の在り方を総括して、以下の様な「諫言」を我々学会員に対して送り届け、記事を締め括ろうとします。
『(※学会員は)上(※学会本部)から教わったことを絶対として、検証もなく、鵜呑みにして学ぶというのは、信仰者の態度としては不誠実なものだと考えます。
創価学会本部が言ってるから正しいのでしょうか。
なぜ会員さんは会員さんで、自身で考え、検証することをやめてしまうのでしょう。
それではまさに盲信ではありませんか(略)』
涙が出るほど有難い「お言葉」だと思うべきなのか、それとも鬱陶(うっとう)しい、バカからの単なる嫌がらせ的な中傷だと考えるべきなのか、なかなか判断がつき難(にく)い話です。
…彼の言い分を逆に話すと、我々学会員が学会本部の話を「絶対」と感じるのは、自分達がそれらの話を「自分達自身で検証した」結果、その話が絶対だと確信した上の事です。
学会員にとっての検証(信心生活=仏道修行)は日々続いています。日々連続して学会本部から流れてくる信心の話の数々を、毎日生活上で実体験(検証)しているのです。
彼の様に、アンチ系のブログから適当に引っ張ってきた下らない作文集を単純に「鵜呑み」にしている訳ではありません。
「鵜呑み」「相互洗脳」はアンチ学会のお得意の芸当なのですが、彼はしっかりそれを人生の糧にして、日々アンチ学会道を「盲進」しているようです。
別の言い方でこのブログを評価すると、難しい話を難しく説明する事は「バカ」でも出来ます。しかし難解は理論をかみ砕いて平易に文章化することは「理論バカ」には出来ません。
要するにこのブログは、難しそうに見える仏法用語をひたすら散りばめただけの、単なる自己満足の作文集だと言う事になります。
おまけに、「信心の体験」と言う最重要な話が一切記されていません。
摩訶不思議な仏法ブログです…。
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車バカと仏法の論理バカ…。言葉は違っていますが、底辺に流れているものは何となく似ています。…片や免許も取れない口だけドライバー、片や信心経験ゼロの仏法用語大好きな似非信仰者。
ネット上にはこんな理屈バカがウヨウヨ屯(たむろ)っています…。
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