地獄の宿業の数々…

物心つかない頃からの某会員。
約14年前から教義や教学、党への支援など様々学び調べるほどに疑念が強くなり、(結果)非活(となる)」(Twitter紹介文)

空楽…Twitter(2014~2017.7.10)

某会員」とは言うまでもなく「某創価学会員」のこと。
これって、まあ学会副子の退転後の、例の如くの例のお言葉です。
Twitter主の性別は見当たりませんが、記載内容から考えて見ると、女性部です。

今回は、そんな彼女の言葉の数々をご覧頂きます。

〇   〇   〇

Twitterしてる人とかは(大体において)、今回の創価学会仏とか先生という呼称の強要とか違和感タップリだと思うんだけど、近所の高齢者の末端会員の人たちは何も感じてない気がする。
今度、お昼の座談会の時に聞いてみよう。(非活と(自分のTwitterに)書いてるけど、月1(回)だけお昼の座談会だけ付き合いで行ってます)

彼女のような仏法教学に無関心・無教養の人は、「創価学会仏」の本当の意味も考えたことも無いのでしょうね。
先生」という呼称に関しては、大体の組織でトップの人間に対しての呼称としての「先生」は特に異とすることでも無いわけで、彼女は兎に角学会の様々な言動に関して一種の「恐怖感」を抱いているようにも感じます。

でも若干面白いことに、近所の末端会員達にも気を遣っている言葉も書いていますので、彼女は学会批判者活動に邁進している人間にしては意外に(学会側から見ると)「良質な人間」のようにも見えます…。
お付き合い」と恥ずかしげに話しますが、本気で学会批判をやっている人が「座談会」などと言う「バリ活まがいの活動」などは決して出来ないはずなんですが、意外に彼女は普通に参加を決め込んでいます。

ふた言目には、「あなたの祈りが足りないから…」 「題目があがってないから…」 という親。
(彼等は)子どもの話してることに、ちゃんと向き合ってるといえるのか…??
(まあ、それって)うちの親なんですけどね

親御さんの話す事も個人的には理解は出来ます…。
がしかし、今現在は親としては娘を責めるよりも、自分達が娘に題目をおくって行くと言う事が最大事なことになるはずなんですが、親御さんはチョイと感情的な言動に走っているようです。
これは、「未活動家族」の問題になってきますね。

この本の中で奥田さんが、「絆という言葉の中にはきずが入ってる。傷ついた人には、傷ついた人と繋がり、痛みが分かり絆を結ぶことができる。
「助けて」と言える国へ ──人と社会をつなぐ (集英社新書) 集英社
絆にはきずがあるということを知らないまま、絆という言葉だけご乱用されていることを憂えいでいる。みたいな内容の話をされていた。
人の痛みが分かるからこそ、深く絆を結ぶことができる

言葉遊び的なそんな文章。
内容の希薄さは兎も角、こう言う分かり易さは書籍としては大事な事。
その故に、何の仏教知識も無いTwitterの彼女の目に留まったわけですから…。

しかし、これらの言葉の数々の「文意」と同等、又はそれ以上の内容の話は、創価学会の書籍・スピーチ等の中に嫌と言うほど出てくるんですが、そんなマトモな話は彼女には気付くわけもナシ。
見たいもの、聞きたいものしか見聞きしない」と言う学会批判者の本性モロ出の彼女です…。

世の中の多くの人を救えるような人もいるだろう。それは、それでいい。
自分の手の届く範囲の人、少人数であっても何かしら生きる力になれたとしたら 自分は、幸せを感じる
会って話せたらそれが1番なんだけど、顔の表情や身振り手振りから、わかることもあるし。。。

この二つの文章は、まさに語彙・語感を変えて見ると、池田先生のスピーチそのものです。
また、学会活動に於ける部員さん廻りの苦労話そのものにも感じます。
彼女は遠くない過去に、こんな内容を聞いた記憶を胸の底に秘めて、そして書籍の中に「再発見した」と言う、そんな心温まるお話…?

知り合いに、連絡を取ろうとしたが、携帯メールもSMSも届かない。仕方ない。冷静に受けとめる
自分と出会って交流してくださる人々に感謝の日々。何億人もの人の中で、出会う人は、限られてるからね(^^;;)

これって、選挙活動における、所謂「F取り」の苦労話そのものです。
彼女の裏側には、意外な創価学会員の姿があるのかも知れませんね…。

ただ、こう言う(表現は悪いんですが)中途半端な学会員って結構な数いるはずです。
問題は、彼女のような立場の人が、その後ネットなどの嘘八百ブログを読み込んでしまうと、結果押しも押されぬ立派な学会批判者に「変貌」してしまう、と言う事実も存在するのです。

…何とかしないとダメなんですが、何かいい知恵はないものでしょうか、そこの「学会批判者」のあなた……。

〇   〇   〇

人生半分以上過ぎてしまうと 、いろんな経験してきたことが無駄じゃなかったことを実感する
今日から、気合い入れ直して…、新しい扉を開くような気持ちで生きなきゃ。
生ある限り、精一杯生きるしかないもんね(^_^;)

文章で判断する限りでは、彼女は大体50歳程度の婦人。
旦那の顔が見えないですが、多分ご健在なんでしょう…。

人生50年生きて、そして「未活動・退転」のまま、その後の人生に突入しようとしている彼女。
健気と言えば、確かに健気な人ではあることは確か。
まあ、それも人生の一つの選択かも知れません。

がしかし、そのまま年を取って、その時点で若し「本物の苦労」が発生した時、さて彼女はどうなるのでしょうか…?。
本物の苦労」とは、要するに彼女自身の「宿業」のことです。
老後における宿業出まくり人生は、心身共々耐えられないほどの辛さになってくるはずですが…。

悪性の宿業」が出た時点で学会活動に触れていれば、その宿業の苦労も大した労力ではありませんが、でも何の経験、つまり若い時分に宿業に対する方策を教えて貰っていない処に、彼女にとって「訳の判らない宿業」が、それこそ連続して発生してしまうと、彼女にとってはこれは当にもう「地獄」の様相。

「創価学会の活動に触れている」と言う事は宿業の扱い方も理解していますが、何の仏法知識の無い人間にとっては自身の宿業を「自身の使命に変換」する方法も知らない訳ですから、彼女のその後の人生は考えるだに恐ろしき悪路の連続…。

学会退転者さんに知って貰いたいのですが、日蓮仏法で言う「地獄」の実態とはこう言う事なのです。
自身の日常生活での「ドン詰まり」。
何だか判らないけど、訳の判らない難儀が「連続発生」。
でも、解決法が何も浮かんでこないまま、苦しみだけのそんな「人生の終点」…。

若い元気な内は、それこそ「肉体と精神のパワー」だけで乗り越えられます。
が、肉体も精神も衰えた時期にそんなのが襲ってきたら、さてあなたはどうします…?
あなたは、どう出来ます…??

これから数年、数十年後の今月今夜、退転者の「あなた」に起こる様々な数々の「宿業の実態」は、さて一体どんものなんでしょうか……


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Author: 乾河原

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