下は、今回取り上げるブログへの学会員さん(だと思いますが)からのコメント者さんに対しての返答文章です。
「…信心が核になってる奥様だからこそ、カモさん(ブログ主)は奥様を愛していると思うんですが?その辺どうすか?
逆に言えば、信心抜きの奥様は今の奥様ではないかも&カモさんも好きにならなかったかも、ですよ?」
との「みかん。」さんからのコメントに対して、ブログ主さんが応えるには、こんな風。
「とりあえず私の感想なのですが、非常に残念ですが
関係ないね♪
柴田恭平風に一言で終らせてゴメンネ☆」
と、少々素っ気ない返信。
そんな柴田恭兵風ブログが、これ。
隠れアンチ創価学会生活…「申し訳ない、締め方が無理矢理なレスの結論」
〇 〇 〇
え…と、当ブログの当記事の関連文を読んでいません。
ただ常識的にこれらの遣り取りを読んで想像できるのは、ブログ主さんの奥さんが学会員だと言うこと。その奥さんに対してのブログ主の愛情の存在意義は、奥さんが学会員だと言う事を「含めて」のそれなのではないか、と言う「みかん。」さんの意見に対しての、ブログ主のまあ「反論」という感じなんでしょうか…。
で、無責任ながら真面な話は出来ないものの、少なくとも当記事に関してだけのMonLinGenの感想を一つ二つ、三つ程。
「ただ、みかん。様の突っ込みの中に一般人とナンミョ~(学会員)さん(と)の大きなギャップが沢山隠れているのがわかると思う。
確かに妻の人格形成において、学会との関わりがとても影響しているのは否定しません。
が、それはあくまで一つのファクターに過ぎません」
ブログ主としては一応妻の学会員としての人格形成の「影響」は認めるものの、しかしその学会信仰の彼女の人格への「影響」は、あくまで一つの「ファクター」(要因)でしかないと、そう話します。
で、その「理由」をこう説明するのです。
「私は明太子が好きです。とても好きです。全力を出せば、明太子一切れでドンブリ3杯可能かもしれません。
宗教に興味の無い人間から見れば、本来自分の愛する人の宗教などその程度のモノです。
自分のパートナーが明太子が好きな間は愛して、明太子を食べなくなったら愛せなくなる人なんていないよね?」
一読だけだと彼の話す「理屈」に、成る程ね…と言う感想も出てきそうになりますけども、しかしよく考えるべきは、「趣味」と「哲学」とは次元が全く異なっていると言うこの「事実」です。
趣味や単なる好悪の感情なら、成る程ブログの彼の話す単なる人格の一つの要素でしかないことは言えるでしょうけども、しかし、人生を「左右」させる「哲学」となると、彼のようなそんな甘ったるい考えは通用しません。
「日蓮哲学」とは、当世にはびこる煩瑣(はんさ)哲学のようなよく理解不能のそんな似非学問のことではありません。
自身の人格を形成するそう言う種類のものなのです。
若干話がずれるかも知れませんが自分の経験を少し…。
私の職場は、テレビ、パチンコ(含スロット)、馴れ合い…の話「だけ」が幅を効かすそんな仕事場です。
で、同僚のある人の言…。
「テレビを見ないと人間は駄目になる。
読書なんかしてると馬鹿になるぞ」と。
ブログの彼の話は、私の職場の人間の感覚と「同列」のような気がしてきます。
趣味やテレビで「人格の基本」が形成できるのであれば、今の日本人の全員漏れなく「絶対的な幸福境涯」な人生を送っているはず。
でも、現実は違います。
さて、どういうことなんでしょう…?
「でも学会員は『明太子が食べれない人とは結婚できない』っていう発想がある。恋愛問題のブログ限定で見れば解ると思うんだけど、『学会員だから』って言う理由でパートナーそのものを判断する人などいない」
要するに、この種の人間、そしてウチの職場の人間も含めて、日本にはこの種類の「馬鹿な連中」が余りにも多いと言うこと。
彼等は人生を「変える闘い」など、単なる「趣味の一つ」程度だとしか考えていません。
特に学会批判者達は、間違いなくそんな感じですね。
「事実」というものを本気で考えようともしないし、そしてヤバいことに自分の不幸を全て「他人のせい」にしてしまうと言う、そんなリスキーな人間達です。
そんなお手軽な人間に「哲学」などと言う重っ苦しい話は、全くの御法度だし、そもそも論として理解することも不可能…。
〇 〇 〇
「あげくには
『信心しない人なんて幸せになれない』
『信心しない人は不幸になる』
一般の大多数の人にとって、宗教って人生のオマケ、もしくは人生の道標だと思うんだけど、ナンミョ~さんにとって
宗教 > 人間
なんだよね。一般の人からすると不等号の記号が逆としか思えない」
彼が話す「一般の人にとって…云々」は、現代の日本にとっては確かにそうだと言えます。
だからと言ってその事が「真実」だと言う事には、一切なりません。
哲学のない人間のいい加減すぎる言動が、ブログの彼や私の職場の人間の様々な行動に、文字通りモロに現れているというこの「事実」をどう受け止めるのか、と言う事なのです。
その事を反省する人がどれだけの人数現れてくるのか、そこが「学会応援ブログ」のこれからの力量の見せ処なんでしょうね…。
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