犀の角のように独り歩め…M.I.Vorobyova-Desyatovskaya「『法華経』─仏教研究の要」を読む」
「梵本 SADDHARMA-PUNDARIKA (サダルマ・プンダリーカ)成立の時期に関する新たな研究があれば読みたいと探していたところ、たまたま見つけた論考。ロシア科学アカデミー東洋古文書研究所南アジア研究学科長(の発行というネット上での書籍です) 」
さて、いきなりの偉く専門的な仏法専門用語…。
これを突然見せられると、チョイと引いてしまいそうになります。
サダなんとか…プーチン、リーチン……?
…これは要するに古代インドの言葉(梵語/サンスクリット語)で、意味として「サダルマ」は非常にすぐれた教え、「プンダリーカ」とは白い蓮。「スートラ」が付いてお経(釈尊の言葉)。語頭に「ナーム」を加えると、すぐれた教えに帰依(南無)しますと言う意味になり、日本語では「南無妙法蓮華経」となります。
今回は、こんな難解な話題を取り上げて色々話しているブログを、吊るし挙げて、いや若干の批判をしてみたいと考えています…(‘-‘*)
チョイとお付き合いを…。
〇 〇 〇
「東洋哲学研究所の文書ということもあり、日蓮や創価学会、池田大作の話になるのではないかと斜に構えて読みだすと案の定。
知りたい内容は断片的にしかなかったが、途中から「法華経と日蓮」という一項が設けられていて、鼻白む気分となったが、読めば『木絵二像開眼事』を説明されていて、身を乗り出したい気分となった」
「東洋哲学研究所」とは、言わずと知れた池田先生の設立された仏法研究所。
ロシアにもあるんですね、これは知らなかったです。まあ、今のロシアは色々ヤバいことをやっているので、大っぴらには云々出来ませんけども…。
さて、ブログの彼の話す「日蓮や創価学会、池田大作の話になるのではないかと斜に構えて読みだすと案の定」という文言に関しては、これは彼の偏見以外の何物でもありません。
事実は、ブログの彼の「『法華経』–仏教研究の要」(PDF版…以下「研究の要」と称す)全29ページ中での創価学会・池田先生の話題のページ数は、全部合計しても僅かに1ページ程度のページ数しか取られてはいないのです。
「案の定」などと大袈裟に構えるような感じでは全くない訳ですが、学会批判者達は、例え千ページ中のたった一行(十数文字程度)の学会関連の文章があったとしても、「この記事には学会の事しか書かれていない」との紛々たる文句が出てくるようです。
しかしそれはそれとしてブログの彼自身は、私の目から見ても非常に仏教教学に対して真摯に考えていると言う事は、確かに感じ取れます。
他の若干勉強好きの学会批判者と較べても、かなりな知識量だとも…。
「仏には32種類の特別な相があることが知られている。そのうちの何種類かは、描写することが可能である。しかし、大半の相は、実際の仏の姿でしか確かめることはできない」
「もし、31の相が描かれた仏の絵の側に『法華経』を置くならば、純円の教えを体した仏の姿を得ることができることになる」
彼は「研究の要」から「仏の姿」の件(くだり)を抜粋します。これは経典に描かれる「仏の姿の描写」の説明です。所謂「仏の三十二相八十種好」の事ですが、実際こんな「姿」の仏がノソリと家に入ってきたら、家族全員パニックになり兼ねません。
こんな姿は、クリーチャーやエイリアン以外の何物でもありませんからね。
話を元に戻すと、「研究の要」に於いて大聖人は経典での非常に解り辛い、そして複雑な仏の描写を単純明快な「言葉」(音声/おんじょう)として表現したのだと、と説明します。
この、大聖人の「仏/法華経」に対する説明は非常に大事になりますので、再度読んで頂ければと考えます。
「「法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちと・あらはしぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声かへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり」
([法華経の文字は、仏の梵音声という不可見無対色(目に見えず、空間を占有しない)を、可見有対色(目に見え、空間を占有する)の形にあらわしたので、顕色(色彩)と形色(形状)の二色となったのである。消滅した梵音声がかえって形をあらわして、文字となって衆生を利益するのである](「木絵二像開眼之事」)」「日蓮にとって、経典に表された仏の言葉は、仏自身の生きた声なのである」名解説ではないか」
ブログの彼は、大聖人のお言葉を最大限にこう評価します。私も同感です。
この「研究の要」の説明を改めて読んでみると、確かに大聖人の「法華経」の解釈が、それまでの天台教学とは一線を画していたと言う事が非常に理解出来ます。
〇 〇 〇
と、ここまでなら学会応援ブログ記事としての紹介として記念に残る当MonLinGenの記事になるところですが、そうは問屋は下ろさないようで、ブログの彼は最後の最後にこんな言葉を残すのです。
「それにしても最後「彼(池田大作)は、自身の中に仏界をあらわし、戦争も民族の対立もない、善なる新しい世界の創造に貢献している人物である」
「どうやら(当論文の著者は)、池田が会長就任当初から他宗を「邪宗」と読んで憚らず、布教活動を「折伏闘争」と言っていた(り)、また、2度にわたり母体であった日蓮正宗と対立し“紙爆弾”という武器で言論暴力を繰り返したことを知らないらしい」
学会の平和行動を、「戦争も民族対立もない平和な世界構築」と現実離れの作り話にしてみたり、創価学会の他宗や批判者に対する言論闘争を「言論暴力」などと無理矢理に言い換えてしまい、結局自分自身のブログ記事を完全に換骨奪胎してしまったという、そんな情け無い「落ち」となってしまいました…。
ブログの彼は、結構な知的な人間なんですけどもね…やっぱり学会批判者という種類の連中は、どんなに知的に見えても最後の最後の「詰め」はいい加減そのものなんですね。
「白けたオチではあったが、梵本 SADDHARMA-PUNDARIKA 成立について、いくつか参考になるところがあったので、いちおう備忘録」
それこそ「白けたオチ」で終わった、犀の角さんの最後のお言葉でした……(‘-‘*)
関連記事
2 thoughts on “知らない仏教をさも知っているかのように話す、そんな人”