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学会批判一行日記

細々とこの「一行日記」を続けてきましたが、最近は私も落ち着いて生活ができるようになったので、ここに文章を書く意味を模索しておりました

とブログ主。
ブログの彼は、結構な思索系の人物です。
また、年齢もそれなりのお人のよう…。
彼が思索の結果、こう言う結論に至ったと話します。

私自身、沢山の書物を読んだり、話をするうちに宗教というもの自体の小ささ、縛られた観念、それに追従する生命観があやふやで、だからこそ何もわからずにただ追いかけてしまう人達など、人の本質や精神に触れるような事を沢山学びました

…そう話します。

一行日記…「お知らせ

〇   〇   〇

彼は学会三世。
生後一ヶ月時に強制的に入会させられたものの、様々な思索の結果、今は目出度く未活動者の一員として人生を立派に生きている、とのお話。
宗教に縛られる」という感覚を持って未活動者というのも少々だるい話ですが、そうかと言って強烈な学会批判は行っていないようです…。

人は宗教という枠を超えて、つながることができます。みんなで平和で暮らしたいという思いがあれば…
学会員に関わらず、色々な宗教で盲信している人にはなかなか理解しづらいかもしれませんが。
もっと人間観レベル、生命観レベルでは、人はもっと上手につながることができると思うのです

このフレーズは学会批判者だけでは無く、日本人一般の宗教観だと言えそうです。
彼の話すこの一連の事が「本当」であれば、どうして同じキリスト教同士(カトリックversusプロテスタント)や、キリスト教versusイスラム教、ユダヤ教等の争いが絶えないのでしょうか?

彼は「人間観レベル、生命観レベル…」という深い話をしていますが、これはある意味形而上学的な「レベル」の話です。
形而上学とは、要するに宗教上の問題だと言う事です。

形而下」(生活上)で解決できない人間性の問題を解決するのが形而上学の役割なのです。
人間観・生命観レベルとは宗教的な問題と言う事に、彼は頑張ってお勉強をした割りには、さっぱり理解出来ていません。
これもやはり、実践の教学の全く出来ていない 副子さん故の出来事なのでしょうか…。

それに気が付いた今は、親も憎むことなく、今までアポ無し訪問してきた幹部に憎悪が向くことなく、今までやってきた私の活動に嫌悪が涌くこともなく、やっと全てが浄化された感じです。
家で会合をやっていると、出席している人に対して「こんな小さな世界観で自分が仏教徒だと思っているなんてとても同情に値するし、かわいそうだと思う」と心の中で祈りを送ることもしばしばです

彼の話すこの意味は、要するに「何も考えずに全てを諦めた境地」と言う事です。
何も考えない彼は、上から目線的に「同情するし、可哀想だと思う」と蔑視し続けます。
仏教の何たるかも、更には日蓮哲学の深さもさっぱり勉強をしようともしなかった頭でっかち人間の「最終形態」…と言う話になるのでしょうか。

境涯の小さな人間の持っている扉の窓は、その境涯の大きさによって大小様々。
彼はどれだけ大きな境涯なんでしょうね…?

〇   〇   〇

創価学会も、昔はわかっていたのかと思います。
でも人が増えるうちにビジネスになってしまい、今は更にビジネスよりも最悪な、黒い政治の虜

ネットからでしか情報を得られない哀れな人間の、これが彼の学会に対する評価です。
境涯革命」の意味すらさっぱりな人間の、そんな彼のこんな学会観です。
宗教をビジネスとしか見る事の出来ない、そんな捻くれた彼の学会批判人生なのです…。


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