もう一つの「池田先生信仰」の話

このブログを立ち上げて何を書いたら良いか?
また自分が何を書きたいのか?分らぬまま、整理できぬままスタートしたのが正直なところです

のんびり創価学会(ブログ数記事より抜粋)

彼はブログの中でこんな話をします。
一見普通の何処にでも居る学会批判者風の話に聞こえますが、しかしその実、かなり深刻な創価学会への問題提起を含んだ内容になっています…。

現在、組織から離れて半年近くなりました。(略)組織から離れるといっても、明確に自分から宣言した訳でもなく、一切の電話やメールの連絡を無視している状態です

無責任な奴!先生の側で何を学んできたのか!と言われるかも知れませんが、組織活動で、気持ち・心が疲れました。
もう限界で自分が壊れかけましたので離れる決意をし(ましたが)、別に信心をやめた訳ではありません。
池田先生を憎んでもいません。学会を憎んでもいません

〇   〇   〇

始めに、このブログは学会批判ブログではありません!!

かつてのバリ活男子部員の彼は、ブログ初投稿時でこう話します。

じゃあ何かと言われれば…内部アンチブログです!って一緒じゃんって思われるかもしれませんが・・・。何だかんだ言っても創価学会は好きです。
ただ、今の創価学会は嫌い

非常に考えさせられる内容の記事になっています。
今の学会幹部の「在り方」と、そして「次代への方向性」と言うものを考えさせるような、そんな問題を含んだ学会批判ブログなのです…。
この話は、学会のことを何も知らない単なる例の如くの学会批判者の創作する批判話ではありません。
かつて地に足を付けて学会活動を頑張っていた活動家の、その人の言葉なのです。

よく学会職員の幹部に注意されましたよ

彼はこう話します。
彼の記す「学会幹部」ではなく「学会職員」という言葉が、強烈な現実味を帯びさせています。

「君の活動報告には「池田門下生」や「師匠にお応えする」って言葉や決意が感じられない。自分の事や部員さんの事を語るより、創価学会は何処まで行っても師弟。この師弟の精神を忘れたらダメなんだよ。功徳もでないよ。」

との学会職員の「お言葉」。
学会幹部や部員からのこの種類の「難癖話」は、極たまに見るものですし、また現実としても私も含めてなにがし等経験する話でもあります。

しかし…、と考えてみます。

池田先生は自分の事を「師匠と思え!」などと話しているかをよく吟味してみると、そんな事は一切言っていないことに気付きます。
日蓮仏法に於いて師匠というものは絶対的に大事なものだ」と言う事は何かあれば話されてはいますが、しかしだから「自分の事を師匠と考えろ」とは一切話していないのです。

これは非常に大事なことだと考えます。

師匠は大事」とは真実の言葉です。
しかし、その真実故に「池田先生を師匠と考えるべき」とは直接の結びつきはないのです。
先生も「そんな話」はしていません。
互いに直接関連のない言葉を如何にも先生が話しているように結びつけるのは、これは学会批判者お得意の「コピペ・創作」の世界観となります…。
行き着く先は、「池田先生信仰」に繋がっていく可能性があるのです。

ブログの記事が本当であれば、その幹部は確かに善意の行為である事は確かなんでしょうが、その大事な事を何も考えずに話していたように感じます。
こんな幹部の下で活動している部員さんにとっては、当に地獄の業火に焼かれているようなそんな感覚を持ち続ける学会活動だと思えてきます…。

更に言えば「部員さんの事を祈る(語ると同意)よりも、師匠の池田先生にお答えする事が最優先だ」と話していますが、これ又先生はそんな事は一言も言っていません。
先生は常に、部員さんを第一にしなさいと話しているだけです…。
池田先生信仰」の話はMonLinGenでも種々の例を挙げて記事にしていますが、当にその「元凶中の元凶」を見た思いがします。

ブログの彼の辛さはとても理解出来るそんな話ではあります……。
上の様々な出来事は彼にとっては「矛盾」そのもので、故に学会が嫌になるのも確かに当然のようにも思えます。
がしかし…、この話を「三障四魔」と言うものを中心に置いて、別方向から考え直してみると一体どんな話の展開になってくるでしょうか…?

三障四魔とは、信心を辞めさせようと言う「自分の心の働き」だと言う事を基本に置いて改めて彼の行動を考えて見ると、彼は幹部から言われた言葉に腹を立てて信心を辞めようとしますが、しかしそれは信心を捨てるその原因を他人になすり付けているだけの事に見えてきます。
信心棄却の原因は、いくらでもどこからでも湧いて出てきますが、でも本当の原因はたった一つ、彼自身の信仰の弱さなのです。
三障四魔は他人からの魔ではなく、まさに己心の魔なのです。

先生がよく話されている、「もう少しで境涯革命が出来る、その時に三障四魔がつけ込むのだ」の、その指導をもう一度考え直すべきその典型例だと言えそうに思えてきます…。

〇   〇   〇

何でもかんでも池田先生。
押し付けられる個人崇拝が嫌で嫌でたまらなかった

彼は苦々しくこう話します。
ブログの彼には同情すべき事情は多々存在してはいます。
が、そうは言ってもやっぱり日蓮仏法は何処まで行っても「」との闘いです。
どんなに理屈を言い張ったとしても、現実として自分自身の信仰を捨てるかどうかの決断は、自分自身の心の置き方なのです。

キリスト教や、他のどうでもいいスピリチュアル系の低俗な宗派なら、悪魔や何タラカンタラ的な神秘主義的神様を持ち出して、自分の不幸は全部それらの所為(せい)にしてすまし顔でいられるでしょうけど、日蓮仏法は他人様に自分の人生を影響され続ける様なそんな情け無いものではないはず。
自分自身の中に厳然と存在している仏性・仏界を中心にして自分自身の人生の在り方・方向を決めていくべきもののはずです。

辛いでしょうけども、彼は出来るだけ早く「幹部の言葉の影響」を振り払って、本当の池田先生の言葉を自身の中に入れるべきだと考えます。
ただの一人の仏教修行などと言うものは、現実としては存在出来得ないものなのです…。


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