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「居合」のある現代的意味

令和3年10月13日(水)

以前通っていた道場で、居合の練習もやっていました。
時間的には杖道稽古のその前の時間帯を使用していましたが、ある日私は若干早めに来てしまったので、どんな事をやっているのか興味を持ち何となく観察しました。

〇   〇   〇

練習生ほぼ全てが二十歳前の若い人達です。
その中に、多分ですが中学生程度の少年が稽古をしていました。
彼を除いて他の人達は、結構一生懸命に稽古をしていましたけど、その彼だけが一際目立ってのだらしない練習状態です。
時折先生に注意をされますが、その瞬間はしゃきっとするものの、しばらくすると又嫌々ながらの練習態度に戻ってしまいます…。

確かに居合の練習って、面白みは感じられないように見えます。
若くて元気な武道好きなら、空手や柔道、更にはボクシング等の激しい格闘技の方がやり甲斐あり、興味を持って練習にも励めるような気もしますが、その彼は若しかしてですが、親からの強制された、ちょっとした武道犠牲者だったのかも知れませんね。

「居合道」(抜刀術)の祖は、林崎甚助(じんすけ)と言われています。
現代の「居合道」は様々に存在していますけども、例外なく全ての居合流派では、自流の始祖をこの甚助に同定している事実が存在しています。
若しかしてですが、「居合」的な剣術の技術を極めていた流派や人物は他にもあったかのかもしれませんが(実際には、鎌倉期のある絵には居合の練習的なものが存在しています)、彼林崎甚助の武道的技術が突出していたお陰で、以後様々な流派からの「祖」と言う栄光に預かったのかも知れません。

甚助は、戦国期終期~江戸期最初期(1542年~1621年頃)に活躍しました。
現代の山形県(出羽国)山形市林崎に生まれました。
甚助が幼かった時の彼の父が、ある剣客に恨まれて暗殺され、その復讐のために剣術を真剣に習い始めたと言われています。

彼は、元々背丈は大きい方ではなかったので、その親の敵の剣客に真正面から挑むのは無謀だと思ったのでしょうか、家に伝わる(ほぼ1m近い長さの)大刀を腰に差したまま敵と相対して、瞬時に切って捨てると言う練習を始めました。
つまり、抜き身で合い対するのではなく、相手を油断させたまま切り捨てるというそんな練習なのです。
西部劇での早撃ち的なやり方なのでしょうか…。

その彼が本懐を遂げた年齢は、若干19歳だとされていますので、その早熟さ、剣術の天才性はやはり目を見張るものがありますし、戦国の世だったとは言え、わずか5~6年の間でそれだけの技術を会得したその生来の武術能力の高さはやはり凄いものだと感じます。
おまけに、有名な武術家の塚原卜伝から流派の「奥義技」まで伝授されているのです。
今彼の技術の派生は、無双直伝英信流、民弥流、水鴎流等の流派に分かれて現代も生きています。

さて、剣術は洋の東西を問わず、また現代流・古流共々に、抜刀した「その後」の戦闘で帰趨を争います。
が、この居合術は刀を腰に納めて、相手が攻撃をしてくるその「後の先」を突いて勝ちを収めるという、そんな在り方になります。
ギリギリ攻撃を待って、そしてわずかな敵の隙を見て切り伏せる。そして納刀と言う、こう言う武術の在り方は世界でも例のないものなのです。

格闘技好きの人間には「チャンチャンバラバラ」的な動きのある武術の面白さに惹かれるのは理解でますが、この居合のように静か過ぎる動作ばかりの武術って、何となく「老人」の踊りのようにも感じられもします…。
当然の話ですが現代では真剣を持ち歩くこと自体が違法ですし、そもそも常時命の危険にさらされているわけでもない今の時代において、今更こんな古代の殺傷技術など必要もないとも思いますが、欧米やロシアでの居合の人気の程を見てみると、やはりこの居合には何か強烈な魅力があるのではないかと想像もします。

…これは居合の魅力の単なる個人的な意見になりますが、その一つは上にも記した「待ち」深さではないのかと想像しています。

数年前、私の職場にある雇われ上司がやってきました。
彼は何処かの土建屋を定年退職して、そしてウチの職場に週に3日ほどのアルバイト的な勤務ですが、乗り込んできたのです。
来た当時もそして今現在も、彼は職場全員から徹底的に嫌われています。
例外もなく全ての人間から嫌われるというのはなかなか無い話ですが、事実なのです。

職場のある一人は、彼に兎に角責められて体の不調を訴えています。
ある別の人は、彼に会うこと自体を拒否して自分の勤務形態を有給も利用して、お互い顔を合わせないような勤務態勢を毎月続けています。
又ある人は、彼がいる限りここでは働けないと、今年の11月で退職を決めました。この職場で一番経歴の長い人なんですがね…。
勿論、私個人もかなり睨まれています。

そんな厳しい人間でも、普段の職場での行動が「理」に適っているのであればそんなに嫌われることはないのですが、豈図(あにはか)らんや、彼自身は言っている事と自身の行動が極端に違っている、兎に角いい加減な人間なのです。
「職場での禁煙」は今ではかなり普通の事になっていますが、彼はそんな事は全くお構いなく、堂々とウチの職場で喫煙を続けています。それもかなりなチェーンスモーカー…。
更に問題は、理由も全く説明もせずにいきなり「命令」。そしてその命令に反論すると、真っ赤になって相手を怒鳴りつけます。
出せばいくらでも出てくる彼の数々の所行ですが、まあ簡単に評すると「人間のクズ」がピッタリの人間です……。

どんな人でもこの種の人間には嫌悪感を覚えるはずです。当然私も同様です。
その彼の様々な「悪事」を記した用紙を胸に、「辞意」を覚悟で彼に異議を唱えようとしたことも何度かあります。
つい最近もギリギリその瞬間まで行きました。

…が、結局その感情は抑えることにしました。
理由は、未だ処時尚早だと判断したからです。

彼の「悪事」のあれこれのメモがまだしっかりまとまっていないのです。
事実の「裏取り」も、まだ中途半端なのです。
その「準備」を完全にやりきった後でないと「最後の行動」は、結果的には自分に完全に不利だと考えたのです。
「最後の行動」の時は、「準備」をし切ったその後、また少なくとも頭の中で行動すべきシュミレーションが完璧になされ尽くしたその後に行われるべきなのです。
更に重要なことは、行動すべき「チャンスを決して逃さない」、と言う事。
そして、行動を起こす時は、相手を完璧に真っ二つにする覚悟を持って遣り切る、と言う事。

「居合」の考え方は、完璧な稽古(準備)と、抜刀する瞬間までじっと待ち続ける。しかし切る瞬間は、全身全霊を込めて相手を一刀両断にすると言う覚悟。
…結局そういうことなんだろうと考えます。
今の私の場合は、最後の行動に移るには「準備」(稽古)が不足していたのです…。

〇   〇   〇

居合道って、若い時は面白みも興味もさっぱり湧かないだろう事は、確かに想像できます。
でも、年齢を重ねるウチに、自分の中で居合のその意味が色々広がってくる可能性もあるのではないでしょうか…。

切る時は中途半端な気持ちや、それまでのいい加減な稽古では、自分自身の足をそれこそザックリやってしまう恐れも持っています。
居合の「本源」って「切る」と言う事ではなく、結局「待つ事が出来る」というその「腹の座り様」なんでしょうね……。


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