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「使徒信条」と「御祈念文」

「使徒信条」とは、キリスト教徒の「自身の信仰の在り方(方向)」を言葉にしたものです。

これは、カトリック、プロテスタントとほぼ共通する内容を持っています。
しかし、若干の言葉の違いで「宗教教義」そのものが変化ますので、本来は「共通」すると言う言葉は間違いなのですが、まあ仏教徒にとっては大した違いはありません。で、ここでは「大体同じもの」と言う事で話を押し通します。

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学会で「使徒信条」的なものを探すと、勤行時における「御祈念文」がそれに当たります。
キリスト教の「何を信じるか」と、学会での「何を祈念するか」と言う事はまあ似ていなくも無いと断言する訳です…(‘-‘*)

真面目な話、本来の在り方で言うと二つは同じ土俵で考えるべきものではないのでしょうが、信仰の中心を占めているもの(信仰の基準)という意味から話すと、この二つの「祈り」は同義だと言えそうです。
学会とキリスト教の違いを、こう言う角度から考えてみるのも一つの在り方かも知れません。

さて二つを並べて、そして例の如く独善的にこれらを比較検討してみます。

使徒信条(信仰告白)…

厳密に言うと「使徒信条」と「信仰告白」とは違うものです。ただその違いの微妙さは、学会と某弱小宗門の信心の「方向」を、一般人に説明すると言う程度のそんな微妙さ、且つ難しさですので、そう言う厳密さがここで意味を持つものかどうかは疑問とします。で、一応この記事では同じものとして、同じく独善的にそう扱います。
また、本来であればカトリック、プロテスタント、更には各宗派のものもそれぞれ別記するのが「筋」でしょう。しかしこれも、ここでの目的ではないので、一応代表的な信仰告白条項を下に載せてみました。(偉くいい加減なキリスト教の教義説明になりましたが、気にしないで読み飛ばして下さい)

「信条」とは、キリスト教信仰教義を暗記し易いようコンパクトにしたものです。「使徒」はイエス時代の12使徒のことを言います。「使徒信条」は最古の「信条」(信仰告白)とされています。
「信条」を(かなり乱暴に)要約すると、「キリスト教徒の信心の在り方」と表現出来ます。キリスト教の教義の何を信じて、何を信じないか。そして、更にはどう生きて行けば良いのかを、短い言葉で表した「信仰の告白文」だと言えます。

これまた乱暴ですが(乱暴が過ぎていますが…)、学会に於ける「ミニ体験談」だと言う事も出来ます。

以下に「カトリック系」の代表的な「使徒信条」を記しました。プロテスタント教や東方教会(ギリシャ正教等)とは「宗教教義」が違いますので、それに伴って言葉内容も異なっています。

使徒信条と御祈念文

使徒信条■(キリスト教)

天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
アーメン。

— 2004年2月18日/日本カトリック司教協議会認可

勤行御祈念文■(創価学会)

普通に活動している学会員にとってはお馴染みの「勤行要典」ですので説明は省きます。
知らない人は、近くに彷徨(うろつ)いている学会員に説明を求めて下さい…。
…は無責任すぎます。勤行とは要するに、法華経の「方便品第二」、及び「如来寿量品第十六」、そしてお題目を唱えることを総括してそう呼んでいます。「題目」だけを取り出すと「唱題」になります。
この詳細を説明し出すと頭が七つに破裂しそうになりますので、要するに信仰上大事な信仰行事だと考えて頂くと、いいかと…。

…以上説明終了

…さて二つの信仰項目を見比べてみると、それぞれの「信仰の在り方」が非常に異なった考えで作られていることに気付きます。

キリスト教徒は「イエスの復活」を中心に、神の存在(復活イコールの意味)、そして結果として(復活を信じる事によって)信徒達の永遠の命を「信じる」と言う「宣言」をしています。(逆に言うと、復活を信じない人間は地獄に落ちると言う意味になります)
しかし、ある意味それ以上の話にはなっていないところがあります。

学会の「御祈念文」は、当然信仰の対象(御本尊・大聖人)への信仰帰命は中心ですが、学会創建からの会長への尊敬(そんぎょう)、日蓮仏法の世界広布(信仰を拡げること)への願い、そして自分個人の願いの成就も加えられています。

それぞれの在り方は、信仰の中心(主・イエス、御本尊)を祈ると言う事は同様ですので、ここに違いはありません。が、個人的な願いの成就に関しては、これを仮に「功徳」と名付けて説明すると…

キリスト教徒個人の功徳

(自分自身の原罪を含めた)罪の許し、からだ(体)の復活、そして自身の永遠の生命を「信じる」…所謂「復活信仰」となっています。(別な言葉で言うと、イエスの復活を信じると言うこと)
そして、それらの信仰の「功徳」を全能の父なる神からの贈り物だと考えています。自分の信仰を深めた結果掴(つか)むと言うのではなく、完全な受動的な(言い方はどうかと思いますが「棚ぼた式」)功徳だと言う事です。非常に皮肉っぽく話すと、どんなに信仰心が強い人間でも(ローマ教皇や牧師でも)、神から見捨てられると何もかもパアと言う話になります。

これは中傷ではありません。実際にプロテスタントの牧師のHPでも、自分自身の天国への道を「どうなるか自分にも分かりません…」という言葉が記載されているのです。これは学会で言うと、副会長が「今だに功徳を信じていません」と言う話と同じ意味なのです。

目に見える「宿業」やその「転換」の概念そのものが存在しない宗教には、信心の「深化度合」を自分自身で知る術(すべ)がありません。
手擦りの無い細い吊り橋を、深い谷底から眼を逸らせながら必死で渡っているような、そんな信仰状態に感じます…。

日蓮仏法信徒個人の功徳

永遠の生命性は、そもそも仏法教義上の「既定の事実」です。キリスト教の唯一回限りの、花火の様な生命の在り方ではありません。永遠に生死(しょうじ)を繰り返している、と言う事が仏法の中心教義です。自分自身の命が永遠ですので、それ自体に対しての執着はありません。
しかし問題は、永遠の生命なるが故の過去からの「付着物」に対する「対処」が、今度は信仰(功徳)の中心になってきます。

生命の悪質な付着物を「宿業」と呼びます。宿業によって、生きている時に様々な不都合が自分の生活に起きますが、その宿業を良質の宿業に「転換」することが日蓮仏法での「功徳」と言われているものです。
更には「世界平和」の祈りが加えられています。だからお得な信心…と言う事でも無いでしょうけど、「使徒信条」にはこの部分が空白となっています。(まあこれに関してはキリストの「再来」、そして「千年王国」と言う概念がありますが…)

さて、日蓮仏法とキリスト教の教義の相違は、こんな簡単な調査だけでも非常な開きを感じます。どちらがどうのという話はともかく、学会員の家庭での勤行時、同じく教会等での信徒達の祈りの、それぞれの在り方がこれだけ相違するものであれば、祈りからの結果(功徳)もかなり違ってくる予想は立ちます。

否定する人も多いのですが、上に見たようにキリスト教の中にも「功徳」の概念はしっかり存在しています。
学会は「現世功徳志向主義(…だからまともな宗教に非ず)」と言う批判がキリスト教から学会の信心に寄せられますが、上述した通りそれは間違いです。「自身の復活」を願うことが「功徳」でなくて何なんでしょうか…。また、「奇跡」も「功徳」と大して違わない話です。

そもそも論ですが、「功徳」を願わない宗教などこの世界にも存在してはいません。
「自然に抱(いだ)かれて…」そして「静かな気持ちで…云々」信仰生活をしていくのが本来の宗教の在り方だ、などと得意げにお話をする人も居ます。しかし、よく考えてみるべきです。「静かな気持ち…」を「苦労ばかりの気持ち…」に置き換えてみると、不安な生活を祈り、そして恋い願うそんな非常識な宗教団体が、果たしてこの世界に存在しているのかどうかを…。
「功徳」とはそう言うものなのです…。

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ともかく、池田先生は「祈り」は大事だとお話しされています。更に「祈り」から一切が始まる、とも。
「祈り」をイコール「功徳」と考えると、「祈り」の教義のない宗教もざっと見渡してみても見当たりません…。
「祈り」だけを見てみると、キリスト教徒の「祈り」の一途さには非常に強烈なものを感じます。そう言う意味で言うと、学会員も「祈り」に関してはキリスト教徒に見習うべきものもありそうに思えます…。


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