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たかが素浪人如きの、この無茶振り

ある「一介の素浪人(すろうにん)」が、こんな学会批判をしていました。
若干の興味を持ち、その学会批判の「理由」なるものを読んでみましたが、まあ、これが笑えること笑えること…。
どう言う知識、いつ頃の学会の情報、そしてどう言う彼の精神状態かは知ったことではありませんが、兎も角彼の学会への批判理由知識の「貧弱さ」は、ただ只管苦笑するのみの内容となっています。
そんな彼のブログがこれです。

一介の素浪人…「なぜ創価学会を批判する必要があるのか

〇   〇   〇

彼のプロフィールを、余り意味はありませんが、暇なので一応記しておきます。

「牢人新聞社 主幹の渡邊臥龍のブログです。神感あり、時局あり、人生訓あり、歌心ありのブログを目指そうと思います。
長らく雅号を使用していませんでしたが、ブログも文筆活動なので雅号の渡邊臥龍(多分、わたなべがりゅう)で名乗ります」

浪人新聞」なるものの主幹をされていると言う彼・素浪人さんは、創価学会批判の理由を簡単にこう記します。

(批判のその)理由は、創価学会は仏教ではないからだ」

 ほう?」と、ちょいと首を傾げてしまいそうな、そんな単純な理由で学会批判を行っているという、その珍妙さ…。
更には、何故学会が仏教と呼べないかのその本来の「理由」がこうです。

「仏教とは何か。それは三宝に帰依することである。三宝とはサンスクリット語で(トリナトラ)であり、仏教では仏法僧と呼ばれる宝であり、仏と法と僧(坊さん)に帰依することである」

その他大勢の仏法に於ける三宝帰依のその「言葉」に関しては、彼は正しい話をしています。
しかし、「日蓮仏法における三宝」に関しての彼の説明は、「完全に」お門違いの話となっています。
で、蛇足になるかも知れませんが、ここに我々の三宝(仏法僧)を記しておきます。参考になれば…。

仏宝」(仏)とは、久遠元初(くおんがんじょ)自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)の「日蓮大聖人」の事を言います。「大聖人」とは「」の意味です。
つまり日蓮大聖人とは、その意味の通り「日蓮仏」となります。

法宝」(法)とは、南無妙法蓮華経の認(したた)められた「御本尊」のことを言います。

そして最後の「僧宝」(僧)とは、日蓮正宗二世「日興上人」のことを言うのです。

彼・素浪人さんは知りもしない日蓮仏法の常識を、彼の化石染みた日本仏法の知識の上に立って、お門違いな論難をしています。
彼の頭は、日本平安期の古代仏法の状態で完全に停止しています。
鎌倉新仏教の興隆という、そう言う「歴史的事実」の知識などは彼の頭には全く何も入っていません。若し入っているのなら、彼の話したようなカビの生えきった仏法講義など恥ずかしくて一言も出来ないはずです。
ここにも、宗教は「心の平安が大事♪」という暢気(のんき)な人間が存在しているようです。

そんなお気楽極まりない彼が、仏法の功徳の話をします。
当然ですが、これも的外れの説明となっています…が。

「現在、創価学会は現世利益を追求する我利我利亡者の団体である。これを仏教では餓鬼道と呼ぶ。餓鬼道とは、六道のひとつであり(略)」

現世利益」とはよく耳にする、宗教知ったかぶりの人間の学会論難文句ですが、しかし彼等もこの素浪人さんと同様の日蓮仏法の何も知らない連中です。

日蓮仏法(他の仏法も同様です)は、「永遠の生命観」の上に立った宗教教義を持っています。
我々(生物全体)は生まれては死に…の繰り返しの中で、その生命の奥底には「宿業」(業)を積み重ねてきた存在です。

その「」には、概略として良性と悪性の二種類が存在しています。
悪い業」は、人間が生きている時には彼の生活全てに影響を与えます。(良い業も同様ですが、ここでは悪い方を主として説明します)
それによって、若しかして「非業の死」という究極の「結果」がその人に対してもたらせられるかも知れませんので、「悪い業」を持ち続けているかも知れない当人にとっては、この業の所持と言う事は、全人生を賭けても何とかすべき問題となります。

他の仏教、そのほかの宗教は、この業というものの存在そのものを「完全否定」、または「頑無視」あるいは、何となく「知らん顔」をしているのが現状です。
然るに当日蓮仏法では、その悪い業と言うものを当人が生きているその現世の間に転換して、逆に「良い業」に切り替えることが出来ると説きます。
結果、その人の人生がより良く変化する、と言う事です。

そして、その業の転換を称して「宿業転換」、または「人間革命」と呼びます。

本来の仏教教学としての「現世利益」とは、この「宿業転換」のことを意味します。
これは日蓮仏教の基本の基本、その基本となる思想となりますが、彼・素浪人さんはその知識も意味もさっぱり理解出来ていない全くのド素人(しろうと)さんです。
そんな彼が、一体どう言う理由で創価学会の信仰を論難できるのでしょうか…?
不思議な感覚に襲われます。

創価学会・公明党は、巨万の富を築いても飽き足らず、政権与党という立場で権力欲に満ち溢れても尚も強欲であり続ける」

「池田大作氏にとっては、幾ら信者が拝んでお題目をあげたとしでも、池田氏の肉体的は老齢と病魔に浸食され、肉体的には生命を維持するのに限界に達しているにも関わらず現代医療の最先端を駆使して最高峰の医療技術で延命治療を続けている。
現代の創価学会・公明党は御釈迦様や日蓮に対する背信行為である」

仏法知識皆無の彼・素人さんは、こんな批判を続けます。
普通に学会の教学知識を持った人間からすると、この上の批判文章は爆笑の種にこそなれ、何の共感も呼ぶことはありません。

〇   〇   〇

「最も問題なのは、皇祖天照大神をお祀りしている伊勢の神宮や明治天皇を御神霊鎮まります明治神宮、護国の英霊鎮まる靖国神社など日本の神々を祀る神社に参拝すると罰が当たるなどと妄想を主張することが問題である」

彼は神道のお話をこんな風に綴っています。
要するに彼は、単なる何処にでも転がっている「国粋主義者」でしかなかった訳です。
更に言えば彼は、前回の戦争中の、神道信仰を中心したあの大日本帝国の「妄想」に完全に取り付かれた人間だと言うことです。
当時の日本がこの「神道信仰」を利用して一体何をしてきたか、日本国民に対してどう言う所行をしてきたかの大事な知識一切が、彼の頭の中には存在していないのです。
ある意味彼は、完全思考停止状態の人間だと結論づけることが出来るのです。

さて、この程度の素人如きに、真っ当な仏法である日蓮仏法の批判が、一体全体、果たして出来得るのかどうか、それが問わるべきだと考えますが、あなたはどう思われますか…?


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22件のコメント

  1. ishipote

    はじめまして。「僧宝」(僧)は、なぜ日蓮正宗二世「日興上人」にだけ限られるのですか?

    • MonLinGen

      ISHIPOTEさんへ

      コメントありがとうございます。
      「何故、僧宝は日興上人だけなのか」という疑問のこと、私の個人的な考えを述べてみます。これは正式な学会教学のものではありませんので、そこは間違えない様にお願いします。

      日興上人は、日蓮宗の五老僧を加えて六老僧のお一人だったと言う事はご存じのことだと考えます。
      日興上人お一人だけが日蓮正宗、加えて創価学会の第二祖というお立場になったのは、やはりそれだけの「歴史」が存在するのだろうと考えます。

      第一は、日興上人だけが日蓮大聖人遷化までの常随給仕を行っていたこと。そして、重書である「御義口伝」を纏め上げ、更に「三大秘法口決」「 百六箇抄」「御本尊七箇相承」「本因妙抄」などの相伝が日興上人に授与されたことが考えられます。
      それ相当の人間でないとこれだけの事はされないはずだと考えます。

      第二は、大聖人が遷化された後、六老僧を含む弟子門下達が日蓮の墓所を月番交代で守護することが定められたにも関わらず、日興上人以外はそっぽを向いていたと言う事実が有ります。
      こんな人達に、果たして第二祖の資格があるかどうか疑問とします。

      第三は、日興門流以外の宗派は偽作としていますが、日蓮一代の法義を全て日興上人に付嘱したとする「一期弘法付属書」と、日興上人を身延山久遠寺の別当と定めたとする「身延山付属書」を日興上人に与えたという事実。
      付属は、後の江戸期も明治の終わり頃になっても大事な儀式でした。

      最後は、日蓮大聖人と同じように国主諫暁も日興上人は最後の最後まで行っていたと言う事実が有ります。
      他の御老僧はその間何もしていません。

      さて、ISHIPOTEさんは、これらの事実を読んで、果たして日興上人とそのほかの五老僧達と、果たしてどちらが日蓮大聖人の後継だと考えますか…?

  2. ishipote

    創価学会の第二祖?  学会は在家集団でしょう。日興上人は誰に付属されたのでしょう?

    • MonLinGen

      ishpoteさんへ

      創価学会と日蓮正宗は、基本的な処はお互い踏襲しています。
      違いは、大聖人教学に対する「対応」です。「対応」とは、日蓮教学を如何に「現実化」するかどうか、更には現実化しようと努力しているかどうか、です。

      現在の日蓮正宗の僧侶達は、世界に向けて自身の宗教哲学をどれだけ「具現化」する努力をしているか…よく考えて見ると、かなりな疑問符の連続になります。

      さて、第三祖は日目上人です。
      これらはネットで調べるとかなり詳細なものが出てきますよ。

    • MonLinGen

      ishpoteさんへ

      宗教の、創価学会内外問わずの「教義」とは、要するに「平和の構築」だと考えます。

      何故なら、世界中にある宗教どれ一つをとっても、自身の住む世界が「平和」でないと、自分の宗派の考え方を広めることが不可能になる訳ですから、当然のことです。
      ただ、確かに「終末思想」を中心にした教義で動いている宗教も存在していて、彼等は戦争や自然災害等の結果、自身の「終末観」が表現される、その事に意味を持たそうとしていることも確かです。
      そう言う特殊な宗派に関しては、「戦争・災害」が常態化すること自体が自身の「教義の具現化」だと言えます。
      しかし、そう言う特殊なものは普通の人間にとっては異端そのものに感じるはずです。

      故に、宗派問わずの「教義」とは、平和をどうやって作っていくか、そしてその平和な状態をどう維持していくのかと言う事が最も大事な「教義」になる訳です。
      当然のこと創価学会の「教義」も同様です。

      ただこの平和行動とは、非常に解り辛いものもあります。
      「世界が平和である様に…」というスローガンだけで平和運動だと強弁している宗派もありますが、「平和の維持」とはそう言う言葉だけの行動で構築・維持出来るものではありません。

      平和運動の具体的な行動とは何か…。
      創価学会は草創以来、考え、そして小さな目立たないものに感じるかも知れませんが、ちょっとした行動でそれを表現し続けている組織だと言えます。
      学会のこれらの様々な平和運動を批判する人々も存在していますが、さて彼等は自身で平和運動というものをどれだけやっているのか…疑問符ですね。

      小さな行動、運動だとしても、「行動する」と言う事が大事だと考えますが、ishpoteさんはどう思われますか…?

  3. ishipote

    平和をどうやって作っていくか、そしてその平和な状態をどう維持していくのかと言う事が最も大事な「教義」とのことですが、その「教義」に沿って行動していけばそのような状態になるということなのか?果たしてその中身、創価の教義とは?

    • MonLinGen

      Ishipote さんへ

      こんにちは。
      先ず初めにここでの話の「定義」を立てておきます。

      1. 今から話す事はあくまで「個人的」な考えでしか有りません。とは言え、基本は日蓮仏法・創価学会教義上での話の展開ですので、全くのデタラメを述べるわけではありません。
      2. 創価学会の平和活動の「教義」のその中身とは、との質問への「信仰」を基本としたMonLinGenの考えを述べます。
      3. 一般の人にとってはかなり難解と思える話をしますが、何とか追次補足を立てながら説明してみます。

      さて、問題の「教義」の中身は、「日蓮仏法に於ける境涯革命」の事です。
      俗的な言い方をすると「功徳」、更には「人間革命」「宿業転換」とも表現されるものです。

      とても簡単且つ難解な仏法用語に集約されますが、結局この言葉以外では表現できないと私は考えます。
      若しかして学会教学的には、もっと別な用語を使用することも可能かも知れませんけど…。

      さて、日蓮仏法の信仰の本分は、信仰者個々人の「境涯革命」を本分とし、同時に彼(女)の周囲の人々の信心による「人間革命」をそれぞれ目指します。また同時並行として、更に広い国土世間(市町村や国)に住む有情無情(人間や動物、更には国土そのもの)の「宿業転換」を目指すものです。
      「宿業転換」(人間革命等と同意)とは、自分自身の中に有る「最高位の人間性」を引き出すことだと考えてください。(十界論での仏界湧現)

      普通の我々「凡夫」は、十界論での「三悪道」(地獄・餓鬼・畜生)、良くても四悪趣(プラス人界)程度の人間性しか表に出てこないものですが、題目を御本尊に唱える事により自身の人格の向上(~仏界等)が図れるのです。
      「仏界の生命」とは、勘違いされることを前提に説明しますが、どんな状況になっても他人の生命の中に「仏界」が存在していると言う事を信じ切る事が出来る、そんな人間性だと言う事ができます。

      全ての人間に「仏界」と言う尊極の人間性があると言う「確信を持つ」と言う事の具体的な話は、キリスト教の現実を対比させるといいかもしれません…。
      キリスト教でも「平和」は一応宗教教義の中の一つです。
      しかし、現実のキリスト教徒達の行動を思い起こしてみると、どうでしょう…?

      人は皆兄弟だといいながら、中世ヨーロッパの十字軍遠征でのイスラム教徒達への大虐殺。
      イエスをローマに売ったと言うだけの理由での、未だに続くユダヤ人への虐待。
      新たな千年王国だとプロテスタント達が主張しているアメリカ合衆国内での、黒人差別や銃乱射事件。
      アメリカはキリスト教徒の理想郷なはずですけど、現実はかなり歪な国になっています。
      彼等の宗教は「平和スローガンだけ」の教義しか持っていないようですね。

      話を戻して、十界論で言う人間全てに存在する「仏界湧現」(仏界が自分の中に存在していると言う事)を信じると言う事は、キリスト教の「神は自信の中に有る」などと言う言葉だけの信仰などとは全く次元を異にしたものなのです。
      その湧現体験を経験できるのが、御本尊への題目です。

      「一人の人間革命で、全世界の人間革命が起こる」とは小説人間革命の言葉です。
      上述の話を元に考えて見ると、理屈は通るはずだと考えます。

      話を纏めてみると、創価学会の平和教義の具体的実践とは、
      信仰者個々人の祈りを込めた題目が、地域社会に広がり、それが更に日本や全世界に広がっていく、その中で構築されていくものです。
      勿論同時並行としての「平和行動」も添えられますが、基本として題目を中心とした御祈念がないとそれらの行動も全て空回りとなることは目に見えています。

      さて、何とか補足を付けながら学会の信仰、平和運動の具体的な話をしましたが、納得は出来ないにしても、なんとかの理解はして頂けた…かも知れませんね(‘-‘*)

    • MonLinGen

      匿名さん、こんにちは

      御本尊のことはMonLinGenブログの「魔界アフィリエイト地獄」(ブログ「新規投稿記事右側表示)を読んでください。それでも疑問の時は、その記事を元に新たに質問してください。

      仏の教えを信じて従っていくと言う意味では、確かにそうだと言えます。が、創価学会の信仰には「体験」というものが存在しています。
      故にこう言い換えることが可能かと…

      「日蓮大聖人の教えを行じた信仰体験を積んだ結果、更に信じ切る事が出来る」

      と。

  4. ishipote

    本尊が極めて大事ということですが、創価の本尊は仏様が自ら顕されたということですか?

    • MonLinGen

      ISHIPOTEさんへ

      創価学会(=日蓮正宗)の御本尊は、日蓮大聖人が顕示されたものです。日蓮大聖人はイコール仏様と言えます。
      故に、ISHIPOTEさんの仰るとおり「本尊は仏様が自ら表された」という表現は間違っていません。

      がしかし、この御本尊の「場所」が何処かとなると、他の仏法とは一線を画した場所にあります。
      上の「匿名さん」にもお話ししましたけど、先ず「魔界アフィリエイト地獄」を読んでください。多分それでも疑問符は残るはずですので、その疑問を自分の中でしっかり整理して、その上でもう一度質問をお願いします。

      この件は、かなりややこしいし、更にはお互い本気の対話でないと、結局いい加減な結果にしかなりません。(これは過去にも数回こう言う「対話」を経験していますので、信じてください)

  5. ISHIPOTE

    「この御本尊の「場所」が何処かとなると、他の仏法とは一線を画した場所にある」とのことですが、その「場所」とは何処でしょうか?

    • MonLinGen

      ISHIPOTEさんへ
      こんにちは。

      キリスト教信徒の最終目標は、「天国」でイエスと仲良くすることです。そして、その目標に向けて祈る対象は「十字」、「十字架」です。十字架の場所は、基本として教会の正面にぶら下がっています。
      さて、天国は何処にあるのでしょう?
      多分雲の上の何処かなんでしょうけど、実際はよくわかりません。

      念仏を唱える浄土宗は、仏壇の中の阿弥陀仏の仏像に念仏を唱えて、往生後は西の何処かにあると言われている「西方極楽世界」(綺麗な世界)の蓮の上に往生して(生まれ変わって)、そして何も心配なく幸せに仏道修行をし直す、と言う事になっています。

      さて、ご質問の御本尊の「場所」ですけど、記事の中で転載した御書の御文を、再度ここに記してみます。(読んでいただいたでしょうけど、もう一度)

      「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我れ等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる」

      …古文だし宗教用語、難解そのものだと考えます。
      この文章を現代文に意訳してみます。(あくまでもMonLinGen個人の訳です)

      「御本尊」とは、お寺や会館、更には仏壇の中に存在するものではありません。(此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ)題目を唱え信仰を全うしようとする(只我れ等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる)「自分自身の心の中」に存在するものです。(胸中の肉団におはしますなり)
      この事を信じ切る事、それが日蓮仏法(創価信仰)の肝中の肝となります。

      「外道」とは、信仰対象を自分自身の「外部」に求める教えの事を言います。
      上に挙げたキリスト教がその最たるものです。
      浄土宗も一応仏教だと言われていますけど、実際は「西方極楽世界」と言う現実とは遙かに別世界の場所を死んだ後に目指すという、これも外道流の教えが中心なのです。

      自身の中に存在する御本尊を信じることと、自分とは全く別種の何かを信じることの開きは、これは雲泥の差の教義となります。
      自分を信じ且つ、全くの赤の他人の中にも御本尊という最高の人格があると言うことを信じるという事は、日蓮仏法を行じている人以外の人間にとってはほぼ理解することも想像することも出来ないものです。

      歴史上の事実から見ても、キリスト教徒達の十字軍遠征や、神の名を持ちだしてのイスラムの聖戦は有名ですけど、仏教には「侵略戦争」の歴史が存在していません。
      仏教徒にとっては他人、更には敵に対しての無意味な憎しみは存在し得ないのです。
      敵の中にも自分と同じ「仏界」・「最高の人格」を持っているという「事実」を知っているわけですから、意味のない戦いなど出来るわけはありません。

      話を整理します。
      日蓮仏法上の御本尊は、自分自信の中に厳として存在しています。
      創価学会の信仰とは、その事実を自分の命の中のその根源に叩き込む修行のことを言います。
      単なるスローガンではなく、「自分も他人も全く同じ人格を持った人間なんだ」と言う人間信仰を、これだけ徹底的に教義として持ち続けている宗教宗派は、創価学会以外に何処にもないのです。

      理解出来たかどうか、若干の心配もありますが、何とか自分の考えを綴ってみました。
      納得は、出来ないだろうとは思いますが、話の中のほんの一文だけでも理解していただければ、嬉しいです。

  6. MonLinGen

    ISHIPOTEさんへ

    一つ質問をしても宜しいでしょうか?

    学会批判者の質問や論難は過去にも何度も受けました。それに対しては、私がこれまであなたにやってきた通り、こんな感じの自分なりの「回答」「対応」を彼等にはしてきました。
    彼等が理解してくれたかどうかに関しては、ほぼ全員最後まで話が続いたことがなかったので、多分ですが途中で飽きたという想像をしています…。
    つまり、話の内容が重くなってきた途端、若しくは相手が都合が悪くなってきた途端(これは私の感覚ですけど)、全ての対話が途絶えてしまいました。要するに、彼等が途中から勝手に何も言わず突然いなくなるのです。

    まあそれでも、対話自体は楽しいし、それにそれなりの論理思考を回転させる機会を持てたこと自体がいい経験だったと感じますので、それに関しての特に不満は持ってはいません。
    でも、梯子を途中で落とされたと言う変な感覚は、これはやはり今現在も持ち続けてはいます。
    過去の対話者達は多分ですけど、単なる興味本位だけで私に対して話を持ってきたんだろうと、今までの経験上ですけどそう感じています。

    対話を申し込む、または話をしようと考えること自体は、特に異とするものではありません。でもやはり誰かと対話をしようと決意するには、それなりの「理由」「自身の意味付け」が必要だと考えますし、納得は兎も角としても、少なくとも自分の求める「答え」を得ようとする最低限の努力はすべきだと、私は考えます。
    で、その答えが得られた後は、常識的にも何らかの話が有っても然るべきだとも、と考えているのです。

    さてあなたは、どう言う理由で質問をされているのでしょうか?
    その理由が私にはよく理解出来ないのです。

    興味本位?
    学会批判のためのその粗(あら)探し?
    暇つぶし?
    それとも、本気で学会の教学、今は御本尊のことを聞きたいから…?

    …よろしくお願いします。

  7. ISHIPOTE

    すみません。法華講員です。打ち明けると対話を拒否されると思いましたので。学会が正宗から破門され30年近く。その間周到に構築されてきた邪義に染まらされていることに気づいていただきたくコメントしております。

    迷いの凡夫の命を即座に本尊として捉えることは、大聖人自ら破折されておられます。「衆生の心は皆善につけ悪につけて迷を本とするゆへに仏にはならざるか」

    • MonLinGen

      ISHIPOTEさんへ

      今まで何度もこのブログ上で「対話」を行ってきました。
      私はブログ主催者として、ただの一度も対話者に対して拒否をしたことはありません。どんなつまらない話に対しても(本当に情け無いコメントもありましたけど)、彼等に対しても対話拒否はしていません。
      私は最後の最後までお付き合いをしますけど、しかし結局彼等の方から離れていくのがこれまでの現実でした…。

      法華講員さんとのこと。了解しました。特に何の問題もありません。

      さて、本当に対話をするには、場所替えが必要だと考えますが、如何でしょうか…?
      別部屋を用意しますが、そこでじっくりとお話をしませんか。

      もし良ければコメントください。部屋は簡単に作れますので心配無しです。
      よろしくお願いします。

  8. ISHIPOTE

    どうぞ。私はどこまでも正法をお伝えするのみです。しかしあなたに「信」があるかどうかです。

    「悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る」

    • MonLinGen

      ishipoteさんへ

      了解しました。
      しっかりした部屋を作りますので、若干お時間を下さい。
      予定として8/2の月曜日、昼12時から対話部屋を公開しますね。

      よろしくお願いします。

  9. MonLinGen

    以後の対話は、「対話部屋(2021.7.23~)」に移行します。
    興味のある方は、そちらへの移動をお願いします。

    MonLinGen

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