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仏法は「勝負」を旨としていますが、何か質問は?

一般の創価学会の信者に邪(よこしま)な人は居ません。
邪なのは、信者を騙(だま)し続ける創価学会(本部職員達)です

巧妙に嘘とデタラメを真実と偽る集団(公明党)に、国政を任せてはなりません

学会員達を直接批判すると後々問題が出てきそうなので、末端会員は取り敢えず横に置いて、今は学会本部の人間を中心に批判します。同時に、公明党にもそれとなく疑義を挟(はさ)んでもいます…。
ここにも「(学会と公明党の)政教分離原則違反」の本当の意味を何も知らずに、ネット上からMCを受けまくったまま記事をコピペしている人が存在しています。

法華行者の会…しられざるデタラメな「創価学会の教義」

宗門とはまた別部隊の学会批判者達。
宗門が真正面からの部隊とすると、彼等「顕本法華宗」達は「(から)め手」とでも言っていいのかも知れません…。

〇   〇   〇

仏教とは、約2500年前の文明社会に実際にお現れになり、最下層の人々から国王に至るまで、人々の一切の苦しみを解かんとされた釈迦牟尼仏の教えであり、心の教えであります。2500年前も現在も、人々の心そのものは何も変わることはありません

ブログの僧侶は、僧籍にいる者らしく仏教史を簡単に記してから、仏法の「心の在り方(信仰の在り方)」をこう話すのです

まあ…そうなんでしょうね…と言う個人的な感想です。
で、学会の教学本から彼の気になる引用文を取り出して掲載します。そして、如何にもと言う言葉で学会の日蓮仏法解釈の「間違い」数々を指摘するのです。

「釈尊出世の本懐である法華経でさえも、(今時)末法の今日にはまったく力はない」
「日蓮聖人が末法の御本仏であらせれる」
「釈迦を本仏とするような狂学で、天下の創価学会に太刀打ちしようとしても、労多くして益なきことを知るべきだ」
(正法、像法では力を持っていた)釈迦等のとうていおよぶ 分際ではない」
(以上は学会教学本からの抜粋をブログ主が転載したものです。順番は変更しています)

上述の宗教教義は、学会ではお馴染みの日蓮仏法教学の任用試験の内容で、要するに「釈迦仏法終焉」(正法→像法→末法)に於ける日蓮仏法からの邪宗批判です。
学会員にとっては特に問題とする仏法教義でもないものですが、やはり「被批判者達」にとっては人ごとではありません。
気づかぬ振りも出来ない話になっています。

「お釈迦様を謗り、教えを信じない創価学会の本尊でなければ、幸せになれないとはどういうことでしょうか」

こう話し、彼(か)の僧侶は、学会の末法本仏教義に対して強烈な疑問を呈します。
学会と同じ日蓮を教祖と仰ぎながら、根源の宗教哲学の全く違う顕本法華宗からの「御本尊」と「南無妙法蓮華経」に関する素朴な疑義です…。

「本尊というのは帰依する対象です。
例えば本尊が仏像である場合、仏像そのものが有り難いのではなく、仏像によって顕わされた仏様を想って拝んでいるのです」

これは正法時代の純朴な仏教教義、ある意味日蓮宗教からすると平安仏教への「先祖返り」的な感覚の少々幼稚な疑問だといえます。

末法時代とは別謂いすると、明治維新前と維新後の社会の在り方、民衆の「考え方の違い」、と言う事も出来ます。
古い感覚から文字通り全ての考えが「一新」された世の中には、もう江戸期の士農工商的な感覚は全く通用しなくなった…とそう考えると若しかして理解出来るかも知れません…。

更に別の表現をすると、日蓮仏法とその他の全ての宗教の決定的な違いは、「宗教とは何のため、そして誰のため」という問題に帰します。

「正しい信仰とは、形あるそのものが有り難いのではなく、それにより顕わされたものが信仰の対境となるのは言うまでもありません。これを拝めば幸せになると言うようなものは迷信です。
あくまでも教主・釈迦牟尼仏を尊敬するからこそ、その正しき教えを心に留めて生活し、幸せに向かうのです」

顕本法華宗の彼は未だに釈尊信奉の感覚から抜け出せていません。
要するに、彼の考える仏教と言うのは僧侶が中心中の中心で、かつ仏法の肝は「心の安寧」だと言う古い感覚。
こう言う僧侶中心感覚の宗教を、創価学会は「邪宗」と呼んでいるのです。

宗教は民衆のために存在します。
それが理解出来ない宗教は、太古の「絶滅危惧種」だと言えます。

彼等「絶滅危惧宗派」には、学会でよく話される「信仰の功徳の実感」などは微塵も存在していません。
彼等の主張する「心の安らぎ」…これも宗教の一つの在り方ではあるでしょう。しかし、ただそれだけしかない宗教にとって、我々自身(僧侶自身ではなく)の問題解決が果たしてどれだけの対処ができ得るのでしょうか?

はっきり言って、彼等僧侶中心感覚の宗教では何も対処出来ないことは言うまでもありません。
出来ていないから、こう言う訳のわからない学会に対する「批判」が出されるのです…。

「釈迦仏法など立てるのは去年の暦と同様で役に立たないしろものである。これを使用するから生活に破錠をきたすのはとうぜんである」

 2020年は2020年度のカレンダーを使用すべきです。
邪宗とは2020年の今、未だに1867年度、慶応3年度の日めくり暦を使用している宗派だと言えます。
これでは自身の生活の予定も立ちませんし、実際全く何も出来ません。

「創価学会が、日蓮聖人の教えに背く教えを、あたかも日蓮聖人の教えであるかのように騙(かた)るため、世間に大きな誤解を与えています。釈迦牟尼仏の教えでないものは、仏教ではありません。
日蓮聖人は、仏教が枝分かれし混迷した時代にあって、仏とその教えの本質に統一回帰せしめんとする法華経の広宣に命を懸けたのです」

今年になっても慶応年鑑のカレンダーを頑固に使用し続けている当僧侶は、こう反論します。
日蓮大聖人が、何故鎌倉当時の、幕府の権力の傘の中で胡座をかいている僧侶達に対して、宗教としての間違いを何故指摘し続けてきたのか、僧侶の彼は全く何も理解していません。

大聖人は「釈尊に帰れ」とは一言も言われていません。
…その全く逆なのです。
御書、又はお手紙を本気で読めば、これは誰でも理解出来る話です。

日蓮仏法に近い顕本法華宗達でさえこんな為体(ていたらく)。
ましてや、その他大勢の仏教宗派に於いておや…です。

〇   〇   〇

「仏教は勝負であるから正邪は生活に事実として正は勝、邪は負の現象が出るのである」

この言葉は学会の宗教指針の一つです。勿論誰でも知っている言葉です。
これに対して、ブログの僧侶がこう反論します。

「仏教は勝負ではありません。正しさは、勝ち負けにかかわらず、多い少ないにかかわらず存在します」

勝負」という意味を彼は完全にはき違えています。と言うか、彼には意味そのものが理解できないようです。
学会の話す「勝負」とは、「結果」がでると言う意味です。「結果」とは信心の「功徳」のこと。「信仰体験」と言う事も出来ます。

心の安寧」だけを宗教目的としている彼等邪宗教にとっては、学会信心の「宗教体験(功徳)」が現実に出る(勝負がつく)という事は、驚天動地そのものの考え方で、決して信じることも、且つ認めることも出来ない事です。
ブログの僧侶の、創価学会のデタラメと話す宗教教義の意味とは、要するにこの宗教的功徳の「有り無し」の事、そしてその事実を「理解出来るかどうか」の事だったのです。

学会批判者の皆さん、宗教教義について色々展開しましたけど、これらの「意味」を何となくでも理解出来ましたでしょうか…?


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2件のコメント

  1. 質問します。

    「仏法は勝負を先とし、王法は賞罰を本とする」御聖訓。

    では、
    仏法が勝負を先とするのなら、何をもって本とし、
    王法が賞罰を本とするのなら、何をもって先とするのか?

    さらに世法は何を先とし、何を本とするのか、

    貴方はどうお考えになっていますか?

    • masahitokubo

      李さんへ

      こんにちは。コメントありがとうございます。
      返信が遅れて申し訳ありません。
      仕事が少々立て込んでいまして…。

      私は日蓮仏法を「自分達(言葉を変えて言うと“民衆”)の宗教」だと解釈していますし、更にそれに「確信」を持ってもいます。
      で、その考えを基礎にお話をしてみます。

      仏法(少なくとも日蓮仏法)は自身と王法に勝つこと(勝負の結果として)を目的としています。
      その意味は当記事にも記載していますが、自分自身の仏界の湧現だと考えます。
      仏界湧現とは簡単に話すと(自分なりの解釈ではありますが)、自分の生活を常にプラス思考していける自分に変わっていく、と言う事だと考えます。

      またこれを別な言葉で言い換えると、常にどんな状態でも、またどこに住んでいたとしても「生きがい」を見つけていける、そんな生活を送れると言う事です。
      これが大聖人の言われる、現代流の「先」ではないかと考えます。

      王法とは、特段詳細な説明も必要はありませんが、国家や権力だと言えます。
      国家の第一は、国民全体の「幸福」を追求する「義務」を持っています。
      それから演繹すると、国の目的とは「公共」優先主義で「一個人の幸福」はやはり第二第三の問題にならざるを得ません。
      これが王法の「先」だと考えられます。

      世法の「先」とは、ちょっと言葉は酷いですが「無関心」ではないかと考えます。
      まあそこまでの言葉は言いすぎかも知れませんが、何となくそんな感じのものではないかと想像しています…。

      こんな説明で、納得は出来ないでしょうけど、上の記事の「補足」にはなるのではないかと考えますが、如何でしょうか…。

      若し、別のご意見がありましたら、返信頂けると嬉しいです。

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